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【小説】ワニの尻尾は切れない

 爬虫類はトカゲ以外も皆尻尾が切れるし再生すると思っていた、とチエが言って、「そんなわけないだろ」と江崎が半笑いで否定した。
「じゃあ、オタマジャクシはカエルになるとき尻尾はどうなるの?」とチエが続けて聞くが、そもそもカエルは両生類だ、と江崎は卓球の球を打ち返すようなスピードと角度で返していた。江崎は、あまり優しくない。でも、僕が優しいかというとそうとも言えないとも思う。

「尻尾を切るっていうのは、都合が悪いときに逃げる手段なんだよ。捕食されそうなときとかにね。だから例えばワニとかはさ、元々が強くて、外敵に襲われる危険性が低いから、尻尾を切って逃げる能力は与えられなかったんじゃないかな。爬虫類全部じゃなく、一部の生物にしかできない特別な技っていう方が、なんか、よくない?」

 チエが助けを求めるように僕を見たので、率直に思ったことを言ってみた。意識的に柔らかい笑みを作ってチエの目を見ると、頷いたのでほっとする。江崎はまだ何か言いたげな表情をしていたが、チエと僕を見比べて、興味が失せたように溜息を吐き、ごゆっくり、と次の講義に向かった。江崎は教員免許を取る予定なのだと、江崎ではなく、この前初めて話した江崎の彼女から聞いた。


 屈むようにチエの顔を覗き、「チエは、次2号館だったよね」と聞くと、チエが黙りこんだ。それを見て、僕も黙って車椅子を押す。車椅子の音が静まりかえった廊下に響く。
 僕の次の講義は4号館で、心理学だ。今日提出のレポートがあって、講義が始まる前に出す必要がある。レポートのテーマは、人の感情の動きで不思議だと思う瞬間について。大体毎日のように自分の感情がよくわからないと思うことがあったので、レポートはすんなり形になった。
 そもそも、僕は怒るということがまずない。僕にとって怒りは、感情が芽生えたことも知らない間に消えてしまう。嫌悪も同じくそういうものだった。何にも怒らないし拒否を示さない僕は、江崎曰く、「クレイジー」らしい。感情は自然に発生するというが、僕の場合は、誰かの手によって、自分の感情が都合良くコントロールされている気がして少し恐い、などといったことを長々書いた。

 気づくと、今度はチエが僕の顔を覗き込んでいた。僕は自分が優しそうに笑うことができているのか、よく不安になる。特に、チエにはなんだか、見透かされそうな気がしてしまう。
 怒りも嫌悪も、ないわけないだろう、と僕は僕に向かって問う。消えているんじゃなくて、何かに変わっているとか。もしくは、順応してしまっているだけかもしれない。もっと、考えてみた方がいい。
 まただ。僕は僕の持つ感情に納得がしたくて、薄汚れた僕を覗き込んでみたくて、チエの目越しに自分自身を見つめ直してしまうことがある。
 おまえは、我慢をしてるのか? 目に見える偽善は心が楽になるか? 僕は僕に、勝手なことばかり言うのだが、僕は僕で、それに怒ることもない。


 チエは、2号館の入り口で、もういいよ、と合図を送るように素早く手を振った。僕ははっとして車椅子から手を離し、反射的にチエの目をもう一度見る。チエは、少し考えるような素振りをした後、わざとらしく口をすぼめた。

「トカゲもワニも、みいんな、都合が悪いときに尻尾が切れて、逃げられたらいいのにねえ」
 チエが言う。そうかなあ、と答えながら、僕はこっそり指でチョキを作り、腰元でゆっくりとハサミを動かすような手振りをする。取り戻せる尻尾ならいいのだが、再生しないものになると、突然躊躇してしまうのをやめたい、と声に出さずに思っている。それと、もし再生したとしても今度は尻尾が二股に、奇形となって生えてくるのも恐かった。僕は、やっぱり優しくないのかもしれなかった。

もっと書きます。