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☆さらみの土壌

中込に佐久医療センターができて早いもので6年が経ちました。
画像にあるような(画像はWikipedia)以前まで通っていた本院も古い病棟はもう取り壊されていて、面影は残っていません。


本院の4階西病棟は、こども病院よりも馴染みが深く、今でも時々夢に出てきます。


高熱出して緊急外来から病棟へあがる。

古ぼけた深い藍色のエレベーターを使って、

4階へたどり着く。

西の病棟へ行く。


未整備のベッドが廊下に出ていて、面会室を過ぎて、ナースステーションの前には一脚の青い長椅子。ソファーと呼ぶにはあまりに古臭い。ところどころ破けてる長椅子。

処置室に入る。

入らない血管に何回も何回も針を刺されて、青あざつくった腕にやっと入った点滴を、ガラガラと転がし夜中の暗い廊下を歩き、静かに病室へ向かう。


大体決まって、奥から二番目の大部屋。
小学生の頃から、もうそこには大人が普通にいた。
プライバシーなどほぼなにもない6人部屋。
大人のいびきが何よりも嫌いになったのは、その時からだったかもしれない。

ナースステーションから一番近いところには、今でいう重症心身障がいのある決まった子どもが何人か並んでいた。


その時は障がい、なんてまったくなにも考えずに笑うことも目を開けることもないお友だちの横で本を読んだり、似顔絵を描いたりしていた。


当時は、たくさんの看護師さんたちに話し相手をしてもらった。
学校のこと、家族のこと、好きな子のこと、自分の病気のこと。
たくさんたくさん聴いてもらった。
当時の看護師さんや補助婦さん(当時)はよく僕を怒った。そりゃあ点滴で縄跳びしたり、車椅子でウィリーやったりしたら怒りもする。
でも同時にめちゃくちゃあたたかかった。

院内学級には何人かで並んで二階の医局を通り過ぎて、端の端にある物置小屋を改装したような院内学級へ通った。
その時はまだみんな僕よりもお兄さんお姉さんだった。
そこでスイッチを押すとぼんやりWindows95(98だったか…)と浮かぶパソコンで、麻雀のハイをを合わせて消すゲーム(上海だったか)をやったり、休み時間は卓球をやったり。

早くお昼食べてダッシュで1人できて、まだお弁当食べてる先生と一緒に、笑っていいともを見ていた。
そして「1人で来ちゃダメでしょ!」と連れ戻された。

病院はとにかくお腹が空いた。病院食はお世辞にもおいしくはなかったし、同じメニューの繰り返しだった。それでも三食とおやつが楽しみだった。
お昼に時々出る少し伸びたつけうどんと、朝時々出るアルミホイルに入った目玉焼きが大好きだった。

カレーが出た時は、一階のレストラン白樺で出していた半熟の茹で卵を50円で買って卵カレーにしてた。

当時の栄養士さんはよくしてくれて、できるだけ病院のもので満足できるようにいろいろとしてくれた。
今自分が食べてる病院食を見て思うけど、とても美味しくなったと思う。

10時、12時、15時には、コスモス公園のコスモスタワーが音楽を鳴らしていた。今でもまだ鳴るのかな。⬇︎探してみたら音源があった。

https://youtu.be/RiLWcYX2N5I

夕方から夜までがとてつもなく暇だった。
病棟にある本は読み尽くしてしまった。
世界のおはなし名作全集のうち、第8巻ロシア文学全集のなかの「いっぽんほねあしおにばばバーバヤガー」は擦り切れるほど読んだ。なぜこの作品が自分にそんなはまったのかはわからない。

こどもが遊べるプレイルームからは浅間山が綺麗に見えた。
落下防止のために、柵があって、自分の身長ではまだそこから上を覗くことはできなかったから、机によじ登って窓を開けてたら見つかって、また怒られた。そりゃそうだ、ここは四階だ。

当時ピアノを習っていたから、壊れたカセットテープのように同じところを何度も何度も間違えながら寄付された電子オルガンを弾いていた。

夕飯ぐらいになると、佐久方面に勤めている父親が見舞いに来てくれることがあった。
父はコンビニで買ったお弁当を広げて、一緒に食べた。
その時はまだテレビカード。1,000円で1000分しか見られないテレビを、3日で1枚という約束だった。ゴールデンの番組を大事に見たかったのだけど、父が来た時はそのカードでニュースを見ていたのが未だに解せない。
でもその時に揚げ物を少しくれたりしたから少し許した。

ちなみに、ゲームボーイも3日で単3二本という決まりだった。
計画的なこどもではなかった僕は、いつも3日目にはつかないゲームの電池をなんとか復活させようとタオルに包んでみたり、日の光に当ててみたり頑張っていた。
スーパーマリオは今でも苦手なゲームの一つだ。


夜は寝られない。
元々神経質だったのもあるのだと思うのだけど、夜8時ぐらいからいびきの二部合唱が始まり、消灯を過ぎると五部合唱になった。
布団をかぶるけど全く眠れない。
昼間限られた環境の中でも、子どもながら体力を発散させてるから眠たいのだ。
でも同時にこの時間は看護師さん達と話せるから嬉しかった。

緊急入院が来た時は、処置が終わるこどもをソファーで心配そうに待ってるお母さんと何故か一緒に座ってた。

ヌシと呼ばれてた。
今だったらそらそうだろうと思うけど、当時はその言葉に揶揄が入ってるとは思わず堂々としていた黒歴史がある。

そんな日々を過ごしながら、点滴は毎日のように挿し直し、抗生剤治療をし、場合によっては手術をしたりしながら2週間親元を離れて病院で暮らしていた時期が僕には年に1,2回あった。

ハウスキーパー(院内清掃)の妙齢のお姉様方にかわいがってもらったり、売店のおばちゃんにこっそりアイスおごってもらったり、レントゲンのおっちゃんと顔馴染みになって「よう!もう来んなよ!」「おっちゃん、おめえもな>▽<!」みたいな感じになったり。


今はなくなった本院で、何を学んだかはわからない。
ただ間違いのないことは、言葉では表せない自分の基礎となる土壌を育んでくれたのが、小児科の四階西病棟だったのだろうと思う。

今はまだ、新しくなった医療センターには昔のことを話せる人たちがいる。
だけど当時の上の人たちはもう退職してるし、当時の若い人たちは偉くなってる。

時代は誰のものか、と前にnoteで書いた。

改めて振り返ると、やはり時代を作るのは自分自身なんだろう。

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