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クリエイティブではない者

https://toyokeizai.net/articles/-/697841?page=2

私は何かを生み出す、作り出すことにとても苦手意識をもっている。
一方で決められたことを正確にやる事務が得意というわけでもない。
クリエティブではない自分は、これからどう生きていったら良いのか、と相当期間悩んでいた。

記事の中に
「フロイトは『文化への不満』に、「芸術家のように生きるのは不可能だ。自分の人生を芸術家のような人生にしてはいけない。なぜなら芸術家は不幸だからだ。芸術家はいつも創造性の欠如への恐怖に晒されている」と語っています」
「創造的であれ、さもなくば死だ」
という文言がある。

創造的、クリエティブという概念について自分は持っていないという恐怖を見事に言語化してくれている。

その恐怖の中でも、我を失わなかったのは、障害年金という定期的に入るお金があったから。
消費されるコンテンツという考え方や、残る創作物とは何か、といういずれ到来する可能性が高いクリエティブ社会に向けて考え続けることができた。
職業としての神経をすり減らしながら下手なものを生み出す者にならずに済んだ。
何もしなくても入ってくるお金は、自分の生き方を悩み考える上で、必要条件だった。
生成AIの発展で、より思考すること、よりイメージすることなど、よりプロデュース的であること、編集的であることが今よりもっと求められる社会になるということを、感覚として持つことができた。
そういった意味でも、現行制度の大半を維持したベーシックインカムには最近はかなり賛成の立場でもある。

個人的に、クリエティブである感覚は子どもの時、多くの人が持っているものだと思う。
好きなこと、というのがそれだ。
だけど、好きなことは成長の過程で少しずつ削がれていく。
好きなことは、大事に育てていくと根っこになる。
根っこが削がれてなくなってしまうと、すぐに倒れてしまう。
数年前の講演会で、ザ・リッツ・カールトン・ホテル日本支社 支社長 高野登氏がこのように言っていた。
なにも私は、今の教育が子どものクリエティブさを奪い、均一化しようとしている、なんて言わない。
大事なのは、好きなことを上書きされない守り方をほとんど誰も教えてくれないということだと思う。
でもこれは、虫が好きだから昆虫博士に、編み物が好きだから手芸屋に、料理が好きだから料理人に、ということでもない。(将来何になりたい?ではなく、何をしたい?と聞けるか聞けないかにもよるとは思うが)

クリエティブは今でも私の中の恐怖だ。
ただ、周りや社会、自分をよりよくしていくためには、という思考を止めないということは大事にしてい
丸山俊一氏の『欲望の資本主義』を読み直そう。

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