イエッタイガーと叫んだら虎になっていた

イエッタイガーと叫んだら虎になっていた。噂には聞いていたのだ。イエッタイガーに強力な呪術がかけられていると。

しかし、俺には自負があった。ただ目立ちたいために叫ぶヲタクのイエッタイガーとは違い、俺のイエッタイガーは本物であると。本物のイエッタイガーを叫ぶ俺には、呪いなど効かないはずだ。その自信があった。それなのに、このザマだ。虎の巨躯は、狭いライブハウスではみんなの邪魔になる。がっくりと項垂れながら、迷惑にならないよう隅に移動する。ヲタクたちの刺すような視線が痛い。

イエッタイガーは、アイドルのライブで叫ばれる言葉だ。ライブの高揚感、フロアの熱気が臨界点まで達したときに溢れ出る言葉。アゲ曲と呼ばれる盛り上がる曲の曲間、ブレイクと呼ばれる一瞬の静寂を破る、エネルギーの爆発。それがイエッタイガー。

ところが、一部の「静寂を楽しみたい」と主張する人たちは、イエッタイガーを蛇蝎の如く憎み出した。耳障りなダミ声で、余韻が台無しにされている、と。そして激しい論争がSNSで巻き起こる。その対立を憂慮した一部のアイドル運営は、イエッタイガー禁止を公式にアナウンスする始末。しかし、禁止したところで、湧き出る熱い思いは止められない。日本中のライブハウスで、イエッタイガーの叫び声が絶えることはなかった。

事情通の友人によれば、反イエッタイガー派は、比叡山の山月堂にこもり、飲まず食わず不眠不休で1週間マントラを唱え続けたという。そして、不動明王の強力な加護を得て、奴らはイエッタイガーに強力な呪いをかけたというのだ。

最高に決まった俺のイエッタイガーの余韻が、虎への変身でぶち壊しだ。ライブハウスの隅で小さくなりながら、ステージを見上げる。アイドルは凄い。フロアで客が虎になったというのに、慌てず騒がず、完璧なパフォーマンス。アゲ曲ブロックの後のラストブロックでは、聴かせる曲を連発して、いつの間にか客は虎のことを忘れ、ステージに集中するようになっていた。「虎だ」とか「チッ、迷惑な」とかざわついていたのに、もはや俺を気にする人はいなかった。

ライブ終了後は特典会だ。虎になったからといって、特典会参加が禁止されているわけではない。レギュレーションには、「人間に限る」なんて書いてない。財布を口に加えて、物販に移動、金を出すのに苦戦したがなんとか推しの袁さんの2Sチェキ券をゲット。チェキの列に並ぶ。

チェキ列に虎がいるのを見て、ギョッとするヲタク達。「虎になってるヤツがいる、ダセー」とか、「あんな害悪にはなりたくなよな」とか、陰口も聞こえてくる。聞こえないように喋ってるつもりかもしれないが、虎は聴覚が鋭いから、聞こえるのだよ。虎にガブっとやられたら、君らの人生おしまいだよ?やらないけど。出禁になっちゃうし。

「りーちゃん、見えてたよ、虎になった瞬間」
袁さんは、俺を見てにんまりと笑う。
「虎と2Sチェキを撮るなんて、アイドル人生で初めてだよ」
「俺だって、虎になるつもりなんてなかった…」
「落ち込んだ虎って面白いね。じゃあ、私も虎ポーズね」
袁さんは、俺にポーズ指定する余地を与えずに、「がおー」とポーズを取る。「勝手なことを」とも思うが、可愛いから許す。

「ねえ、なんで虎になるのか、知ってる?」
チェキに画像が浮かび上がってくるの待つ時間、袁さんが俺に尋ねて来る。
「イエッタイガーに呪いがかけられたって聞いたけど」
「ちがうんだよ」
俺の答えに、袁さんは小さく首を振る。ピンクのサインペンの蓋を開けながら、彼女は言葉をつづけた。
「ヲタクだけじゃなくて、アイドルだって、心の中に虎を飼ってる。自分は特別、自分だけは周りと違う…そんな自尊心に囚われながら生きている」
そこでいったん言葉を止めて、袁さんは宛名とサインをすらすらと書く。宛名がいつも名乗っている「りーちゃん」ではなく、「トラさん」になっているが、俺にはもはや突っ込むこともできない。
「コントロールできなくなった自尊心が臨界に達した時、人は虎になっちゃうんだよ」
チェキを俺に渡す袁さんの表情は、どこか投げやりな表情にも思えて、心臓がギュッと縮まるような感覚が湧いてきた。しかし、そんな虚ろな表情も一転して、笑顔になる。
「だから、自分の中の虎を認めることが大事。虎から人間に戻るための呪文を教えてあげるね」
袁さんはそっと愛おしむように俺に呪文を教えてくれた。大事な宝物を分けてくれるような笑顔が印象的だった。

アパートの自分の部屋に帰って、俺は袁さんが教えてくれた呪文を思い出す。ようやく虎の自分とおさらばできる。虎になって部屋の鍵を開けるのは大変だった。しかし、虎になった瞬間に服がビリビリに破けてしまったから、帰るまで変身を解くこともできなかったのだ。人間に戻った瞬間に全裸で通報なんて悲しすぎる。

袁さんが見せてくれた様々な表情を思い出しながら、俺は「自分の心の中の虎」について考えていた。ただ純粋に推しを応援していたつもりだったのに、いつの間にか「ヲタクとしての自尊心」が膨れ上がって、制御できなくなっていたのかもしれない。自分の心と向き合うのは辛い作業だが、また虎になるのは勘弁だ。深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。深呼吸を繰り返して、覚悟を決める。自分の中の虎を認めるのだ。そして、袁さんが教えてくれた呪文を叫ぶ。

「あたいがタイガー!」

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