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神谷美恵子『生きがいについて』

 のっけから長文の引用で恐縮だが、『生きがいについて』は、非常に印象的な書き出しではじめられている。

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしかもしれないが、世の中には、毎朝目が覚めるとその目覚めるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きていかなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出てこないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かねばならないのだろうか。なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましているひと、ひとり人生の裏通りを歩いているようなひとなど。
 いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見いだすのだろうか。(4)

 この、冒頭2段落目の問いかけこそが、本書をとおして検討される課題である。とはいえ、本書はこの問いに明確な答えを差し出すものではない。そうした知識人らしい「押しつけがましさ」を著者は丁寧に退け、つぎのように述べる。「ただこの生きがいという、つかみどころのないような問題を、いろいろな角度から眺めてみて、少しでも事の真相に近づきたいとねがうのみである」(8)。いろいろな角度、すなわち、文学作品、哲学書、ハンセン病患者との交流や調査をつうじて、神谷は「生きがい」という概念に形をあたえていく。

なお、「生きがい」という言葉は日本語にだけあるという。外国語に訳そうとすると、それは「生きる意味meaning of life」となるのだろうが、そうした翻訳語からは失われてしまう「日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみ」(10)が「生きがい」という言葉にはある、と神谷はいう。そうしたあいまいさを無理に定義づけるわけではなく、あえて、あいまいなものをあいまいなままにしたままで、神谷の議論はつづいていく。(とはいえ、神谷の議論は論理的かつ系統だったものであり、人文系研究者にありがちなややこしい議論や難解な言葉づかいを排した、クリアな文体を特徴とする。)


1.     生きがいを形作るもの――生存充実感・未来・変化・反響・自由・自己実現・意味

あるひとが、生きている、と心から感じるためには、多少の困難や悲しみがあったほうがよい、と神谷は述べる(この点については後述する)。しかし、苦しみのさなかにあっても、未来にむかって開かれていると感じられること、前進していると感じられることが大切である、という(24)。それは、食への欲求や性への欲求といった生物学的欲求が満たされたところから始まる、精神的欲求・人間的欲求である(52)。この精神的欲求は、「変化への欲求」(58)とも言い換えることができるという。たとえば、「すでに自己の生命の終わりに近づいた老人にとって、草花を育てることや、孫の相手をすることが大きなたのしみになるのは、ただの暇つぶしという意味よりもむしろ若い生命のなかにみられる変化と成長が、そのまま自分のものとして感じられるからなのだろう」(59)。変化の欲求は未来への欲求と共鳴することで、「心のはり」(62)を作り出す。とはいえ、もちろん、その未来は袋小路であってはいけない。「未来がひろびろとひらけ、前途に希望の光があかるくかがやいているとき」(62)、人は過去や現在の重荷に惑わされることなく生きていくことができるのである。

あるいは、心にはりあいをもたせるものは、他人からの反響にあるのかもしれない(64)。これは「承認欲求」とも呼ばれているが、そこには支配欲や権力欲といったネガティブなものとともに、相手のために自らをささげる献身的な愛といったポジティブなものも含まれる。ほかにも、ひとが自分は主体的かつ自立的である、と感じることができる自由な感じ、なにものにも強制されず束縛されていないことも大切である(67)。また、なにか大きな理想や目標に身を投じ、我を忘れて打ち込みたいという自己実現の欲求(72)、あらゆる体験をつうじて己が生きる意味を自問自答し確かめる、意味づけの欲求など(77)も、(第三章のタイトルである)「生きがいを求める心」のあらわれの一部だろう。


2.     生きがいをうばい去るもの――運命・難病・死別・夢の崩壊・犯罪・死

 このような生きがいは、じつは「損なわれやすく、うばい去られやすい」(96)と神谷は述べる。なるほど、病や死、老い、争いは人間世界から消え去らない。一人のひとが生まれたらなら、彼は人生のどこかでかならずこうした問題に直面し、苦悶することになる。彼はこう問うだろう。悲しみと苦しみに満ちたこの人生は、それでもなお生きるに値するのか、と。ドイツの現象学者K・ヤスパースは、「人間がどうしても逃れえない力の重圧のもとにあえぐような、ぎりぎりの状況」を「限界状況」(96)と呼んだ。未来にひらかれた状態にある人間を限界状況下へと突き落とすものには、なにがあるのか。神谷はそれを六つの要素に分類する。それが、運命(99)、難病(101)、愛する人との死別(103)、人生の夢の崩壊(106)、罪を犯すこと(109)、死との直面(111)であるという。

 こうしたことによって生きがいをうばい去られた人々が共通して述べるのは、「遠のき」(112)という現象である。「世界が幕一枚へだててむこうにみえるというとき、そのひとはすでにみんなの住む世界からはじき出されて、別の世界から世を見ている」(112)。この「別の世界」とは、それまで生きてきた世界がとつぜん「『音を立てて』『ガラガラと』くずれ去り、『こなごなに』こわれてしまうところからくる」(114)。このような確固たる足場が崩れ去ってしまった世界のなかで、時間の流れは滞る(119)。つまり、開かれていたはずの未来は行き止まりとなり、目に映るのは闇に閉ざされた永遠の現在となるのである。すると、不安(128)や苦しみ(129)、悲しみ(133)、苦悩(136)が生じてきて、人びとの内面をめちゃめちゃにする。なるほど、肉体的な苦しみは、治療や投薬によって治癒することができる。しかし、生きがいを喪失した人が抱く精神的な苦しみは、治療することが難しい。神谷は、酒や麻薬や仕事への没頭は、ただ苦しみから逃げただけであって、解決されたことにはならない、と述べている。苦しみを直視し、苦しみを十分に苦しみぬき、そして崩れ去ってしまったかつての足場(世界)を前に、その瓦礫の山のなかから必要なものを拾い集めて新たな価値体系(世界)へと作り変えること、ここにこそふたたび生きがいが芽吹く可能性がある。


3.     心の世界の複数化から精神化、変革体験まで

 さて、ものごとを深く考えるひとは、おおきな苦しみを経験したひとであることが多いと言われる。なぜだろうか。つらい経験によって心が深く掘り起こされてしまったひとは、心の深みや心の奥行きを持つようになる。このことを、神谷は面白い比喩をもちいて説明する。「ものの奥行を認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった視覚から同じものを見ているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行もわかるのである」(199)。つまり、普通の人が生きている「平和な世界」からいちどはじき出され、暗闇の中からもういちど自分の世界を創りあげることに成功したひと、生きがいを自分の力で見つけ出すことができたひとは、「新たな視点」(200)を持つことができるのである。この「複眼的な視点」は現実世界からの「遠のき」によって生じうる。神谷は言う。「心の深さというものが、このような現実からの遠のきと心の世界の複数化からくるのである」と。彼女は、心が深まり思慮的になることを「精神化(spiritualization)」とも呼んでいる(201)。そして「精神の固有の世界は、現実からはなれたところに身をおくことによって、はじめてうまれる」とも述べている(201)。

 なるほど、「遠のき」という現象は人びとの「精神化」に寄与するものと思われるが、しかし、あらゆる人間は多少なりとも現実の世界と精神の世界をともに生きるものである。ただし、現実世界は忙しく、多くの用事に満ちている。そのため、多くの人は現実の用事に忙殺され、精神的なものの芽を十分に伸ばすことがない(206)。いっぽうで、あるひとが精神の生活に没入しようと試みても、たえず現実に引き戻され、二つの世界で引き裂かれることになるだろう。「結局、現世に生きるかぎり、生命と精神の矛盾の中で生きぬくことこそ人間に与えられた運命なのであろう[1]」(207)。どちらもほどほどにとどめて、バランスを崩さずに生きることが良いに違いない。その上で、神谷は次のように書いている。「問題になりうる唯一のことは、この二つのもののどちらに生存の重みをかけるか、ということである」(208)。

 しかし、現実世界と精神世界のどちらに重きを置いて生きるかを決めることができるのは、生きがいを喪失したことがない人である。生きがいを失った人は、いったいどうやって自分の世界を組み立てなおし、生きがいを見つけ出すことができるだろうか。神谷は第十章「心の世界の変革」という章で、ふつうのひとにも起こりうる「心のくみかえの体験」(変革体験)を考察している(243)。ここではその議論に深入りする気はないのだが、要点をかいつまんで説明すると、心の変革体験は宗教や自然との交わりによってもたらされることが多いという(250-251)。そして、宗教や自然との交流をつうじて、人は「一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせるよろこび。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命を注ぎだして新しい形やイメージをつくり出すよろこび。」(267)に目覚めるという。そうした純粋なよろこびを知るひとは、じつは一般に羨ましがられている「勝ち組」や「成功者」、いわゆる「幸福なひと」ではない。「かえって不幸なひと、悩んでいるひと、貧しいひとのほうが、人間らしい、そぼくな心を持ち、人間の持ちうる、朽ちぬ喜びを知っていることが多いのだ――」(268)。


4.     結論、あるいは本書はなにを目指したものであったのかについて

 生きがいとは何か、を探る神谷の考察は、最終的に最初の問いに立ち返ることとなる。絶望の中に生きるひと、絶え間ない痛みに呻吟しているひと、病によってあたまが働かずただ食欲だけになってしまったひと、こうした「生きがいを求める心も、それを求める能力も残されていない」(280)ような人びとは、それでも生きる意味があるのだろうか。この難問を前に、神谷は、それでもイエスと答える。彼らには生きる意味がある。「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない」(281)。もしも私たちが彼らの存在意義を認められないのであれば、私たちのだれも、自分の存在意義を認めることはできはしない。なぜなら、私たちは他者の眼に認められることによって自分の存在意義を認めることができるのであって、自分の内に自分の存在意義を認めることはできないのだから。「これらの病める人たちの問題は人間みんなの問題なのである」(282)。こうした結論で締めくくられた『生きがいについて』で目指されていたのは、「病や苦難にみまわれたひとの心の世界という角度から、生きがいに関係した人間性の事実を少しでも探ろうとしたにすぎない」(286)のであって、なんらかの答えを提示するものではなかった、ということを改めて確認しておきたい。ここに記されたのは、膨大な読書歴から拾い集められた世界中の知の財宝と、それらを「生きがいとはなにか」という問いのもとに類まれなる能力をもって縫い上げてみせた、知識人・神谷美恵子の思考のプロセスである。



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