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「愛犬家」の定義

自分のことを愛犬家だと思ってきた。
動物はみんな好きだけれど、その中でも犬は格別。猫派か犬派かと聞かれたら、犬派だと答えてきた。子供の頃からずっとそうだったけれど、実は大人になるまで犬を飼ったことはなかった。

もちろん、飼いたいと親にねだったことは何度もある。
だがその度に、「お世話できないでしょ」と言われるのが常だった。共働きの家庭では、親自身が飼いたいと思わない限り、犬を飼うのはなかなか難しいのが現実だろう。

子供たちが皆大人になり、犬の世話をきちんとできる年齢になって初めて、犬との暮らしが始まった。我が家の場合は当時両親と同居していた姉がある日突然「ビビビときた」犬を連れて帰ってきたのが始まりだった。(何度聞いても我が姉ながら、意味不明である。)

私にとっては、ドイツへの一年の交換留学を終えて帰ってきたら突如黒い塊がいた、という光景だった。そしてその日から、私の心にはずっとララがいた。


ミニチュアシュナウザーという犬種は「賢い」「忠誠心が強い」とよく言われる。我が家のララも、コマンドはすぐに覚え、トイレの失敗もしたことがない。家族のことも大好きで、私たちの言うことをよく聞いた。

ミニチュアシュナウザーはまた、「食い意地が張っている」とも言われる。
これもまたその通りで、時に彼女の「賢さ」はいかに食べ物を発見するかと言う点にも発揮された。母のサンドイッチ弁当から具だけ抜き出してみたり(昼ごはん時に発覚)、彼女のいたずらと笑い話は尽きることがない。

お散歩も大好きで、若い頃はゆうに1時間以上散歩していた。一緒に歩いて、走って、通ったことのない道を通ってみたり、なんてこと無い生活が一番幸せだと教えてくれたのも彼女だった。

辛い時にもいつも寄り添ってくれた。
体調が悪いとそれを察知してじっとそばにいてくれる。ぺろぺろ舐めながら寄り添ってくれる様は、本当に可愛かった。仕事やプライベートでどんなに嫌なことがあっても、ララを抱いていればなんとかなる気がした。

うるうるした目、長いまつ毛、艶々の毛に柔らかくてしなやかな筋肉。草の匂いのする肉球と頭、温かいお腹。若い時の彼女は贔屓目に見てもそれはそれは可愛かった。

その「可愛さ」は犬を飼う前の想像以上だったけれど、想像通りでもあった。見るからに可愛くて、元気で、献身的で。これが犬の良さ、と思うポイントを凝縮した子だった。


だが犬も歳をとる。

白髪が増え、毛の艶がなくなり、背中とお腹が弛んできたときは人と同じなのか、とびっくりした。ソファに飛び乗れなくなったので階段を設置し、その階段も一段、二段と増えていった。一日中寝ていることが増え、粗相をするようになって本格的に「介護」が始まった。そうして、最後の1ヶ月は全くの寝たきりになった。

驚くべきは、そうなってもララが「可愛い」のはなんら変わりなかったことだ。彼女は毎日毎日、可愛かった。艶々の毛と筋肉をした若い頃も、ぷよぷよした体になった老年期も、ガリガリになった最後の時期も、ずっとずっと可愛かった。

むしろ今では、彼女が若い頃にきちんとララを「可愛がれていなかった」な、と感じる。その毛艶が失われていくことがわかると、若い頃の輝きは一層増す。若い頃の可愛さを噛み締めて、なおさら老年期の愛おしさも倍増する。その時にしかない可愛さ、愛おしさ。今なら、いつどの瞬間でも、もっとあの子を愛せる自信がある。

最後の瞬間まで看取って、ようやく自分が真の愛犬家になれた気がしている。
こうしてまた、寂しさと満足感が私に去来する。

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