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「不易と流行」だなー、と思った話。

というお話がありました。以下引用。

「『当たり前』をやめた。」ことの当否はふれない。「目的思考」で学びが変わったのかは分からない。「型破り校長の非常識な教え」がどれだけ効果があったのかもよく分からない。
けれど、「百ます計算」を子どもたちにやらせまくった人、「よのなか」のしくみを子どもたちに過剰に伝えた人など、教育業界で一世を風靡した人たちが、その後継続的に実績をあげているという話は、寡聞にして聞かない。「ヤンキー先生」に限っては、そもそも何かを成し遂げたかすら怪しい。ただ、彼らの「セルフブランディング」としては、大いにうまくいったようだ。

という文からわかるように、「新しい教育方法について」の否定的なお話です。

不易と流行という考え方

教育において「変わらないもの」を表すのが「不易」
教育において「変わって(変えて)いくもの・新しいもの」を表すのが「流行」です。(過去の記事でも少し書いてます

教育では「変わらないもの」と「変えていくもの」の両立が大事で、、、新しい知識や知見、方法、といったものと今まで使っていた古いやり方を上手に使い分けて(ミックスして)行くことが必要だ、、、と、私は考えています。

ところが「流行」に飛びつく話が多いわけです。「百マス計算」もそうですし「よのなか学」とやらもそうですし、、、今ですと「オンライン授業」なんかもそうなるのかもしれません。結果として「使われていないよねー」となっていて、、、「だったら昔からの方法でいいじゃん」というのが学校で教員していると思うわけです。

とはいえ、百マス計算は結構定着してどの小学校でも百マスの紙が常備されていたりするようですし、私も百マス計算は結構使いますし、、、流行が廃れた後にも「残るもの」があったりもするわけです。

定期テストをやめたり、校則をやめたり、、、の話

基本的に大賛成です。定期テストではない方法で成績評価をするのは先生たち大変だろうけど、絶対に(先生が)楽しいし、色々な利点がある。校則はそもそも「個人の自由」と「学校の規則」をちゃんと理解できるような授業を小学校の間にして「自分たちで考えさせる」とかが必要な事柄だと思っていますし(民主主義・自由主義の国なら当然、、、じゃないのかなあ?)、、、。

ただ、「言い出しっぺが居ない」とか「1つの公立校だけでやる」とか、愚策でしかないなー、と思います。十分予測されることだと思うのです。 「人気がでて、言い出しっぺが引き抜かれる」とか「人気がでて、人が大量にあつまる」とか。人気出て1クラス40人の上限に達しないように「他の中学校でも同じことを始めよう」とかしない理由、、、が「不易と流行」で書いた『結果として「使われていないよねー」となって「だったら昔からの方法でいいじゃん」』という教員の考えだったりするのかなー、と思います。

で、個人主義になりがち

と、先生方が「昔の方法でいいじゃん、結局」と言い出すことを「言い出しっぺの先生」は知っています、頭いい方が多いので。

ですので、「自分を有名にすることで、もっとこの考えを広げていこう」となるわけです。その結果として「ヘッドハンティング」されたり「公立→私立」だったり「教員→教育コメンテーター」になって、、、

一番の被害者は、本来の学区の子どもたちである。通常であれは、普通程度の教育は受けられたはずなのに、過剰な受け入れにより、教育レベルは大幅に低下してしまった。
このように、公教育の持続性や地域性を無視したブランディングによって、結局、「学校の『当たり前』をやめた。」学校は自壊しようとしている。

みたいな話が起きるんだろうなー、と思っています。だって、悪くない方法どころか結構いい方法だとしても「今までの方が楽だから」という理屈だけで採用してくれない学校で仕事するよりも「それ面白いね、一緒にやらせて」と言ってくれる所で仕事したいですよねー(笑)。それを個人主義と呼ぶべきか、セルフブランディングと呼ぶべきか、なんとも言い難いところではあります。

公立校は不易を中心にしている

のを忘れないようにしたいです。流行を追うのは私立校でいいんじゃないかなー。お金かかること多いし(笑)
公立で、流行も不易も、、、というところは「既にスゲー人気」があると思います。で、中心に「それなり以上に有名な先生」がいます、ほぼ間違いなく。その先生が抜けたら代わりは居ないです、間違いなく。つまり、抜けたら終わり、異動したら終わり、、、になる、それが公立。だから「流行ではなく不易」を追い求めるのが公立!と宣言する地域が出てこないかなー、、と思いつつ。

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