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『すずめの戸締まり』と震災とオタクの感想文と【ネタバレ有】

はじめに

これはオタクのオタクによるオタクのための感想文である。

と言えば聞こえはいいけど、実際は文章を書くなんて、大学のレポート(ほぼコピペ)以来。
つまり言いたいのは、文章力はないので、誰かの役に立つような感想は書けないし、書くつもりすらないということです。

いつもTwitterでは言っていますが、あくまでも自分の思考整理のために文章化し、それを見たオタクとコミュニケーションをとることで、より思考を深めていくきっかけになったら…というのが、私の文章化の目的だったりします。

こういうオタクです

この感想文を読むうえで最低限必要な前提条件だけ簡単に紹介しておきます。

・本作『すずめの戸締まり』は2022年12月2日現在で4回鑑賞
・本作の予習として監督の過去作を再履修している最中
・年間30回くらいは映画館で映画を観ていると思う(2022年は数えるのを忘れた)
・基本的に気に入った作品は何度でも観に行くオタク
・本作に関する前情報はほぼゼロで鑑賞

鑑賞前・きっかけ

『君の名は。』『天気の子』

実は、新海誠監督の作品を劇場で観るのは初めてで、恥ずかしい話だけど、新海誠監督と細田守監督作品を仕分けろ!みたいなクイズがあったら、確実に不正解を叩き出すくらいには、ちゃんと作品を観たことがなかった。(そもそもそんなクイズはないし、クイズ番組に出る予定はない)

『君の名は。』がヒットしたとき、自分の周りの人だけでなく、世間が君の名は。を当然観ているものとして話が進んでいくのに耐えられず、絶対に頼まれても観てやらんぞ!と意地になっていた学生時代をよく覚えています。
その後、レポートで批判するために仕方なく視聴して、めちゃくちゃ感動して、手のひらを180度返し、今ではすっかり新海監督の作る作品のファンになっているのだから、人生何が起こるかわかりません。(レポートではちゃんと批判した)

『天気の子』の公開時もすごく楽しみにしていたのですが、当時転職したばかりの自分が天気なんぞに一喜一憂されている場合ではない!と、劇場に足を運ぶのを諦め、東京の片隅で社畜になる訓練をしていました。(もちろん天気に一喜一憂するという作品ではないので、未視聴ならぜひ観てほしい)

そもそも、つい最近まで映画館で映画を観るという習慣が私にはなく、映画館とは舞台挨拶で登壇する推しを観に行く場所と勘違いしていた気さえします。

特報映像

本題とはかなりかけ離れた話にはなるけど、映画館で同じ映画を複数回観るオタクが当たり前になったのって最近のことなんですかね。
私は前まで、年1回映画館に行けばいいほうってくらい、映画は金曜ロードショーで観るタイプのオタクだったのですが、自分が映画館で映画を観るようになって思うのは、近年ヒットする(というより興行収入が多い)作品はリピーターが異常な数鑑賞している傾向にあるように感じます。コアなファンが多い方が勝ち的なね。特典が週替わりでもオタクは通いますもんね。とはいえ、異常なリピーターとはもちろん私も含めてなので何も言えないですが。

2022年春、異常リピーター系オタクの私は、例に漏れず映画館に足繫く通いました。『劇場版名探偵コナン ハロウィンの花嫁』に”参列”するためです。公開初日の最速上映に参列して以降、休みがあれば基本的に映画館に入り浸っていました。

あの頃映画館に行ったことのあるオタクなら覚えているのではないでしょうか?おなじみの「ルルル」で始まるあの歌です(「すずめ feat.十明」のこと)。あのブレス音はずるいですよね。すぐ世界観に引き込まれました。
もちろん特報の映像も秀逸で、そもそも戸締まりってどういう作業なのか?何のために戸締まりをしているのか?とか、あのJKは何者なのか?とか、あの不気味な目をした猫はなんなのか?とか、気になりすぎますし、なにより「お返し申す!」が何を!?って話ですよね。
とはいえこの時点では、またこのパターンか…と思っていたりもしたんです。
それこそ、『竜とそばかすの姫』とか『ONE PEACE FILM RED』とか、最近のアニメ映画って、ストーリーよりも歌で魅せる傾向にあるのかなぁ…そればっかりだとおもんないなぁ…と。(どちらの作品も批判しているわけではない)そもそも『君の名は。』『天使の子』もRADWIMPSの歌に頼っている部分も少なからずあるからなぁ…と。

そんなひねくれ者のオタクですが、公開直前にお披露目となった冒頭12分の映像を観て、この作品への期待値が跳ね上がり、後に毎日すずめの戸締まりについて考えるオタクに生まれ変わることになるのです。

冒頭12分

冒頭12分は、本作のヒロイン・鈴芽と、共に旅することになる青年・草太、2人の男女が出会い、初めて一緒に戸締まりをするまでが描かれています。

作品を観た方にはもはや馴染みのある常世のシーンから始まり、子すずめの元に現れる母親と思わしき女性(実際はすずめ本人ですが)。この時点でおそらく母親は存命ではないのだろうということがわかります。とある地域を連想させる感じもすでに不穏です。

にも関わらず、夢から覚めた後のシーンですずめを呼ぶ母親らしき声に、え!母親おるやん!?となり、どゆこと?あの(常世の)シーンisナニ!?と速攻でパニックなった頭の弱いオタクです。(前情報を入れずに観ていたので、叔母と暮らしていることは知りませんでした(笑))

その後、”環さん”と呼ばれる女性とのやり取りを聞きながら、おそらくこの人はすずめの保護者でありながら、血のつながりはない人なのだろうとまではわかるのですが、明らかにJKに向けて作るお弁当とは思えない力作のキャラ弁に、本当にこの人は保護者なのだろうか?何かが歪んでいる家庭であることは間違いないと私は判断しました。
のちに芹澤くんによって「闇深ぇ」と表現されるそれを、この時点で私も感じていたのです。

家を出た後の鈴芽が、坂道で草太と出会うシーンはもう何度も観ているので、ハクとハウルを混ぜたようなThe イケメンキターくらいにしか思ってなかった気がします。ここのシーンは小説版の方が好きです。ぜひ読んでみてください。(読めば、草太が突然見ず知らずのJKに声をかける不審者だったり、鈴芽がたまたますれ違うイケメンにひと目惚れしているわけではないことがよくわかります)

そこから初めての戸締まりに至るまでのテンポよく進む感じ、良いですよね。それまでの鈴芽の日常はほとんど語られることがないまま、非日常へと入って行くのが好きです。(オタクの二次創作欲を駆り立てるからではない)

初めての戸締まりを経て某曲が流れるところまでで12分ですが、秀逸ですねぇ(伸びしろですねぇのイントネーション)。特報映像でも十分引き込まれますが、そこに物語の基本情報が追加され、ここから何が始まるのかというドキドキ感でいっぱいになりました。(愛媛に着いた時の鈴芽と同じ)

散々特報を見たことで、おそらくこのような作品だろうと想定していたものを、この冒頭12分間で大きく(もちろんいい意味で)裏切られ、早くフル尺を観てみたい!と思いました。というのも、特報映像で予想していたのは、なんらかの理由で出会った男女二人が”ひとつ”の大きな災いを防ぐために扉を閉めることに挑むというストーリーでした。つまるところ、かの有名な「お返し申す」はクライマックスのワンシーンだと思っていたのです。笑
まさか冒頭12分でまだ名も知らぬ男女が息ぴったりに扉を閉じるだなんて思ってもおらず、クライマックスはこれ以上の大きな出来事が起こる上に、日本縦断する話になるだなんて、わくわくしかないですね。

そんなこんなで、期待値をマックスに上げて劇場に向かったのですが、さすがにここまでハマる作品になるとは思ってもいなかったのでした。

今、震災を描くということ

一度目の鑑賞後

一度目の鑑賞で一番考えさせられたというか、どうしようもなくこの作品をほかの人にも今劇場で観て、私と語ってほしいと思ったのは、やはりストレートに震災、それも3月11日のことについて描いた作品だったからです。

予備知識として、緊急地震速報が流れるということは知っていたのと、冒頭の映像を見る限り、東日本大震災をモチーフとした作品であるとはある程度予想はしていました。ただ、予想以上にストレートな表現だったのです。

設定として、鈴芽は当時の震災孤児であり、閉じ師は後ろ戸からの災いを事前に防ぐと言いながらも、その災いというのは基本的に他でもない地震が起きます。さらに西日本豪雨、関東大震災など、実在した災害を連想させるシーンまであるのです。

正直、観ている最中は苦しかったです。
特に鈴芽の日記で震災が起きたのが3月11日の東北であるとわかるシーン。
そこまでは、きっと3月11日の話なのだろうと思うだけで済んでいたのが、これは3月11日のことだとはっきり示されると、今までのすべてのシーンがフィクションであるのに、まるで実在する話であるかのように私には思えてきて、どうしても目を逸らしたくなりました。少し前の芹澤くんとの(おそらく福島?の)シーンとか。冒頭の常世で見た漁船とか。
本当に当時被災した子どもの実話なのではないかと思ってしまう自分がいて、というか実在しなくても、そのような境遇になった子どもはたくさんいたのだろうと容易く想像できてしまうのがつらかったです。
その後の常世のシーンでも、ミミズが津波のように見え、それをバックにして焼けた街を走る鈴芽が、津波から逃げる人を連想させ、さすがにそこは一度目の鑑賞では目を逸らしました。

じゃあ4回も観に行くなよって話なのですが、この震災を思い出させるからというのは1回目の鑑賞後、わりと早い段階で乗り越え、それ以上に今はもっとこの作品について人と話したいとすら思っています。

記憶とは

記憶とは、覚えておくことだけではなく、思い出すことでもあると思っています。広辞苑もそれっぽいこと言ってるらしいです。知らんけど。

過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと
広辞苑

一度目の鑑賞後、自分はなぜこうも震災のことになるとひどく心を痛めるのだろうと、今までの自分と東日本大震災とのことを考えていました。

長くなるので別記事にしたのですが(非公開)、私は当時、関東に住む中学2年生でした。自分の家がなくなったり、家族や友人が亡くなったりとかはなく、生活に少し支障がでるくらいで、どちらかというとテレビで震災のことを知った側だと思います。
だからそんなに自分に重ねるとかはないはずなのに、復興関連のニュースは今でも関心を持っていて、今回も作品を観て苦しくなるほどには、震災のことについて少しは考えてきたのだとは思います。少しは。

でも、人って忘れるんです。
それは悪いことじゃないけれど、時々思い出すことで、自分もまた一歩前に進めるのだと思います。

例えば本作だと、鈴芽は震災当時の記憶をほとんど忘れています。幼少期なので当然のことではありますが、記憶に蓋をしているという解釈もできます。
大切にすると言ったイスをいつまで大切にしていたかとか、扉を開けて常世に入ったこととか、思い出せない大切なことって鈴芽の中にたくさんあったと思うんですけど、それを旅の中で振り返ることで、鈴芽は今の自分を認めてあげられたからこその、すずめの明日という話につながっていくのではないでしょうか。
自分と向き合うとは記憶を思い出す作業ですし、向き合うことで人は前に進んでいくと私は思っています。

後ろ戸の開く場所も、人々の思い出が風化して、その場所すら思い出せなくなったような場所ばかり。その思い出に閉じ師が代わりに耳を傾け、お返しする、大事な職業です。
そのほか本作では忘れるということ、記憶に関して語られるシーンが多々あるので意識して観てみると、また違う見え方を楽しめると思います。

「これが綺麗?」

鑑賞後、私も自分の記憶と向き合っていました。
毎年3月11日になると、この作業はやっているんですけど、年々忘れていくんです。あの日何していたかとかは思い出せるのに、どう感じたかとか、どういう感触だったのかは、少しずつ思い出せなくなっていて寂しくなります。

その思い出せなかった記憶を、本作の鑑賞後はわりとくっきり思い出せて、だからこそこの作品を多くの人に観てほしいし、考えてほしいし、話してほしいと思います。このブログだってそのきっかけのひとつです。

思い出したことのひとつに、震災から少し日がたって、復興のニュースが関東にも伝わってきた頃、父と東北を訪れたということがありました。

「キラキラ丼」というものを食べに行き、その帰りに被災地を見て回りました。(被災地と一括りに呼ぶのはなんだか嫌だし、見て回るという表現もよくないと思うけど、便宜上そう表現します。語彙力増やして出直してきます)

訪れる前までは、きっと復興したんだから街並みも元通りになりつつあって、その地域にお住まいの方も少しずつ元の暮らしに戻りはじめているんじゃないかくらいに考えていたのです。中学生の想像力ではそれが限界でした。ニュースで話題になっていた、プレハブ住宅にすら住めないという話もごく一部の人の話なのだろうと思っていたのだと思います。(それこそ思い出せないのですが)

実際に訪れたら、想像をひどく裏切られて、ニュースで聞いていた復興とは何だったのだろうかと、なぜか私が落ち込みました。
何もなかったんです。たしかに瓦礫は綺麗になくなっていたけど、一面見渡せるほどなんにもなくて、きっと瓦礫を集めたであろう山がまれにあったりとか、とても人は住めないというか、住んでも生活できない状態に衝撃を受けました。今思えば当たり前のことで、あの規模の災害が半年とかそこらで元通りになるなんてそもそも無理な話ですし、”元通り”になる日はずっと来ないんです。

だから作中で芹澤くんの「綺麗」に対して、疑問を抱く鈴芽の気持ちが少し理解できて、あのシーンは切なかったです。あと、環さんの「あそこにはなんもない」とか、扉を「瓦礫」と言うところとか。
外野から見た復興は、当事者にとって復興ではないと感じたあの日を思い出しました。いつだって他人は勝手なことを言います。

残すということ

こういう記憶って残しておかないと思い出すことすら難しいと思います。逆に思い出すきっかけさえあれば、いつだって振り返れるんです。今の私にとってはこの映画がきっかけでした。

例えば、私はなんでも写真に残します。旅先で訪れた場所はもちろん、その日食べたごはんとかも。それを振り返る時間が好きです。

でも、震災のことって写真に残せていなかったんですよね。まだガラケーの時代ってのもあるけど、震災が起きているっていうのに写真を撮っている場合ではなかったです。

では、自分に何ができるかというと、話すことや、こうして文章にすることだったのだと今は思います。その手段は人それぞれで、新海監督にとっては映像作品だったのでしょう。他にも東北に行くと資料館もあるし、語り部の方もいます。それぞれの形で残すということを行ってきての今があります。

実は3月11日になるたびに、震災に対して何もアクションを起こせない自分をどうにかしたいと思っていたのですが、本作を観ること、それをきっかけに思い出すこと、そして誰かに共有することって私でもできるなと思い立って今こうして文章にしています。
共有した先の誰かが、少しでも考えたり思い出すきっかけになったりしたら、これ以上に嬉しいことはないなぁと思います。傲慢かもですが。

さいごに

なんだか突然終わるな!?って思ったオタク、大正解です。

本当はもっと作品の中身について、キャラクターについて書くつもりで始めたのですが、やはり自分がこのブログを書こうと思ったきっかけは、震災と記憶について話すことなので、そこが薄まるくらいならカットしてしまおうと、肝心な作品の内容について触れた部分は削ってしまいました。

前項でも言いましたが、これを読んでいるオタク(じゃない人はこのブログにたどり着いたのすごい!)にとって、震災のことを改めて考えるきっかけになったら、少しはこれを書いた意味もありそうです。

来年で12年ですね。何もできない自分をなぜか責め続ける12年間でしたが、ようやく自分にもできることがあると気づけて、少しは前に進めたのかなと思います。

ここまで、きっかけと震災のことを話しただけですが、監督がそういう話がありながらも楽しく見れる作品(拡大解釈)的なことをおっしゃっていたので、とにかく楽しんで観てください。
私はまた来週観に行きます。

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