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哲学、どうやって教えよう。一つの回答としてのフランス式/野上貴裕


9月からのフランス留学への準備のなかで、一冊の参考書のようなものを読み始めた。書名を日本風のタイトルに訳すとすると、『『ル・モンド』誌で復習、バカロレア試験——哲学編』(Réviser son bac avec Le Monde : Philosophie、以下『『ル・モンド』で復習』と表記)とでもなるだろうか。要するに入試の参考書である。数年前ごく短いあいだパリに滞在したさいに購入し、特に開きもせず手元に置いてあった。ホームステイ先のアパルトマンから歩いてすぐの小さな書店で手に取ったように記憶している。表紙には2018年版と書かれている。この本を読んでいくなかで、自分のなかにあった一つの不安が少しだけ解消したので、その点も含めて紹介してみたい。あらかじめ言っておけば、哲学を「教える」という場面についての不安である。

本当にただの余談だが、先日ファッション・デザイナーのマルタン・マルジェラに関するドキュメンタリー映画を観ていると、彼の最初のアトリエとして紹介されていたアパルトマンにどうも見覚えがあった。よくよく思い出してみると、そこはホームステイをしていた家の一つ下の階であった。建物の変化が厳しく制限されているパリではしばしばそういうことが起こるのであろう。ともかく。

Réviser son bac avec Le Monde : Philosophie, 2018.

バカロレアと「哲学」の試験

よく知られているようにフランスでは、大学入試に相当するバカロレア試験において「哲学」という科目が課される。彼の地の生徒たちは高校生活の最後の一年間で哲学を学ぶ。そこで哲学という分野の基本的な主題やそれらについてのさまざまな主張、そして哲学的な議論の進め方などを学び、実際の試験では与えられた問題に応答するかたちで小論文のようなものを作る。バカロレアという制度の詳しい内実については他書に譲るが、いわゆる文系・理系の別にかかわらず、大学入学を志すものはみなこの哲学の試験を受けなくてはならない(理系や社会・経済系のバカロレアでは多少範囲が狭いようではある)。とはいえ哲学についての公定の教科書などがあるわけではなく、教師が自らの裁量によって教えることになる(著名な哲学者には高校で哲学を教えていた経歴をもつものも多い、例えばドゥルーズもそうである)。だから当然、ある種の標準的な入試対策の参考書には一定の需要があるわけだ。

ちなみに2023年度一般バカロレアの哲学の試験は以下のようなものであった。(3問から一つを選んで回答する。試験時間は4時間。)
・幸福は理性の問題か?
・平和を求めることは正義を求めることか?
・レヴィストロース『野生の思考』の抜粋について説明せよ。

フランスの高校生たちはこうした問題に取り組まなくてはならない。哲学などという奇怪な学問に触れたこともない者には、何を答えてよいのかすら見当もつかないだろうし、多少なりとも哲学を学んできた者であっても、いきなりこんな問題の前に放り出されたらしばらくはぽかんとすることになりかねない。ただしそれは日本の多くの者がこういった問題に対する応答の仕方を教わっていないからに過ぎない。何も徒手空拳で立ち向かうわけではないのだ。2003年の東大入試で出題された有名な問題「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」が、数学を学んでいない者にとって絶望的な問いだと感じられるのと同じである。生徒たちは、問いに答えるために憶えておくべきことがらと、それらを用いて答案を作成するためのある種の「文法」をあらかじめ与えられている。それはどのようなものなのか、『『ル・モンド』誌で復習』から読み取ってみたい。

参考文献
 バカロレア哲学試験の詳細や、より具体的な解法については以下の書籍に詳しいので、より深く知りたい方は以下の二冊を参照のこと。

渡邉雅子『「論理的思考」の社会的構築』は、私たちが「論理的思考」と呼ぶ思考のスタイルがいかなる仕方で社会的に構築されたものであるかという点を、アメリカにおける「アカデミックライティング」とフランスにおける「ディセルタシオン(小論文)」の形式の違いに注目し描き出した好著である。ある人が何かものを考えるさいの様式を「論理的だ」とか「非論理的だ」とか判断するとき、その判断がいかに文脈依存的なものであるかを考え直す機会ともなるだろう。

また、坂本尚志『バカロレアの哲学』は、渡邉の議論を引き継ぎつつ、特に「思考の型」という観点からフランスのバカロレア哲学試験のあり様をより詳細に分析し、そこにフランス社会のなかで求められる「市民」としてのあり方を見出すという著作だ。フランス市民が教育を通じて醸成する「思考の型」は、もちろん十全なものとは言えないものの、人びとが共に生きるうえで否応なく発生する問題について互いに議論し、社会を運営していく基盤となるものである。この点は、フランスという国家(nation-state)自体がそうした「思考の型」の他者たる「移民」の問題によって大きく揺れる現在においてこそ改めて考え直されるべきものだと言える。

・渡邉雅子『「論理的思考」の社会的構築』岩波書店、2021年。
https://www.iwanami.co.jp/book/b584809.html
・坂本尚志『バカロレアの哲学——「思考の型」で自ら考え、書く』日本実業出版社、2022年。
https://www.njg.co.jp/book/9784534059031/

今回紹介したい『『ル・モンド』で復習』は毎年改定されつつ出版されるシリーズものであり、最初の刊行は2012年である。最初の号は「哲学編」のみで、なんと25万部も売れたそうだ。そして徐々にカバーする範囲を増やしていき、現在では「歴史編」「地理編」「数学編」などが刊行されている。(その2012年版のPDFを発見したので載せておく。)

https://cafphilo.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/10/reviser-bac-philo.pdf


『『ル・モンド』誌で復習、バカロレア試験——哲学編』の構成

本書の構成は明快である。まずは以下に目次を載せておく。全体が四つのセクションに分かれており、その下に各々5~6のチャプターがある。

セクション① 主体
チャプター1 意識、無意識/チャプター2 知覚/チャプター3 他者/チャプター4 欲望/チャプター5 実存と時間
セクション② 文化
チャプター6 言語/チャプター7 芸術/チャプター8 労働/チャプター9 技術/チャプター10 宗教/チャプター11 歴史
セクション③ 理屈と現実
チャプター12 理論と経験/チャプター13 論証/チャプター14 生物/チャプター15 物質と精神/チャプター16 真理
セクション④ 政治、倫理
チャプター17 社会と交換/チャプター18 正義と権利/チャプター19 国家/チャプター20 自由と義務/チャプター21 幸福

いずれも哲学の分野で伝統的に論じられてきた主題である。各チャプターはおおよそ4ページから成っている。最初の2ページでそのチャプターの主題について概要が紹介され、定義や語源が付された習得すべきキーワードが示される。3ページ目でディセルタシオンの例題とその解法、さらに重要なテクストの抜粋が提示され、4ページには関連する『ル・モンド』掲載記事が載っている。

チャプター1「意識/無意識」内容紹介

本記事ではチャプター1「意識/無意識」を取り上げ、そこで提示されているものを少し詳しめに紹介しよう(内容にそこまで興味がなければ読み飛ばしてもらって構いません)。まずはリード文。

意識/無意識 La conscience, l’inconscient
人間というのは、意識的であるということ、つまり自分自身を思考の対象とすることができるという点において、世界のうちに単なるモノや生物として存在するわけではない。反対に、人間は世界に対して存在する。意識とは、私と私自身とのあいだ、また私と世界とのあいだにある距離のことである。

主題の概要

このリード文を起点に本文が始まっていく。示されるのは問いと、それに対する過去の哲学者の応答である。まず「意識をどのようなものとして考えるか?」という問い。これにはデカルトの主張、つまり私とは身体とは異なる「考える実体(思惟実体)」であるという定義が紹介される。しかし、意識を、身体とは独立で存在する「物」として捉えるこの定義は、意識が世界や自分自身へと開かれたものであるという点を見落としているのではないかという疑問が提示され、すぐさまフッサールの「意識とは、対象へと投げかけるという作用のことである」という定義が紹介される。フッサールによれば、意識とは自らを世界や記憶、未来へと投げかけ、それらと「志向的な」関係を結ぶひとつの運動なのである。

次の問い。「私の持つ、存在するという意識は疑いうるものなのか?」この問いは言うまでもなくデカルトの「私は考える、ゆえに私は存在する」という結論へとつながる。私はさまざまな存在を思考のうえでは疑いうるが、しかし疑っている私自身は疑い得ない、ということだ。デカルトは自己の意識の疑いえなさを、あらゆる真理の基礎に据えた。

一方でフッサールは、意識を一つの実体としてではなく一つの関係であるととらえ、その関係において世界が私に現れると考えた。そしてその関係のあり方、構造を捉えることに研究の努力を傾けた。

さらに次の問い。「私は私自身にとって完全に明白なのか?」当然ながら答えは否である。自分自身のことがわからないという事態など日常茶飯事であろう。この点に注目したのがフロイトであった。フロイトによれば、意識ではなく無意識こそが知らぬ間に私を規定しているのであり、自己意識をあらゆる真理の基礎として考えることなど到底できはしない。そしてフロイトの基礎的な用語、エス、自我、超自我などが紹介される。

最後の問い。「意識は人間を偉大なものとするのか、あるいは惨めなものとしてしまうのか?」パスカルはこの問いに、同時にそうであると答えた。意識あるいは良心は、人間に自らの行為の責任を自覚させ、その点において尊厳をもたらす。人間のみが精神性や倫理といった領域にアクセスできるのだ。他方で、意識は人間をその無垢から引き剥がし、世界と自らの不均衡に、そして自らが死にゆく者であるということに直面させ、自らの悲惨さを自覚させる。意識とはこうした両義性をそなえたものである。

このようにチャプターの最初のパートでは意識や無意識についてのより下位の問いを軸に、それらについての諸説を紹介しつつ、主題の幅を広げることが試みられる(バカロレアのレベルではあまり哲学史的な位置づけなどは問題とならないようであるが、問題がより難解となるグランゼコールの試験ではその辺りも問われるらしい)。それと同時に、主題について適切に論じるために必要なキーワードも併記される。例えば「魂(âme)」は「ギリシャ語のプシュケーに由来し、長い間〔今で言う〕意識を指す語として用いられてきた」などとして定義される。他にも「コギト(cogito)」や「意識/良心(conscience)」、「主体/客体(sujet/objet)」など、その語源的由来や簡潔な定義が示される。こうした定義はある程度まで暗記すべきものである。

ディセルタシオンを書いてみよう

ではここで示された学説や知識はどのように使われるのだろうか。3ページ目を見ながら考えてみたい。

ここではまず例題が示される。「意識とは重荷でありうるか?(La conscience peut-elle être un fardeau ?)」これはバカロレアで出される問いの形式に沿っている。そしてどのようにこの問いに応えればよいかという解法が提示されていく。

初めに問いを分析しなくてはならない。問いを以下のように分解し、各々を定義していく。まず「Conscience」は「心理学的な意味において言えば、自分自身の存在を自らに対して示す能力のこと」であると同時に、「倫理的な意味で言えば、判断する能力、あるいは自らの行為の倫理的な価値を自らに示す能力」であると定義できる。次に「Fardeau」は「自由の不在、あるいは束縛を示す観念」、また「苦心や苦痛を示す観念」である。そして「peut-elle」は「可能性や選択を示す」フレーズであり、また「正当性を示す」フレーズでもある(peutの元の形であるpouvoirは、助動詞として可能性を示すと同時に許可や当然さというニュアンスを表す)。

また、この問いかけにおいて考え合わせるべきトピックには以下のようなものがありうるだろう。意識/良心、存在や時間のあり方、倫理、幸福、自由などである。

こうした準備のうえで、問題の範囲を狭めてみよう。「私たちのもつ意識あるいは良心は、自らが存在するということを十分に享受するのを妨げる重荷として考えうるだろうか? 意識がなければ、ひとは偉大になるのか、それとも反対に幸福や自由を損なうことになるのか?」

そして、実際にどのように論述を展開するが示される。

まず、①意識は人間の偉大さの印である。意識は人間に、自らの行為に責任のある主体としての地位を与える。重荷として経験されるのは意識ではなくむしろ身体であろう。病気や労働、苦痛、老いなど。また精神分析によると、無意識によって伝達される身体の意志表示はときに意識を乱すことになる。しかし、自らの置かれた条件に対して何も意識していないというのは果たして好ましいことなのか?

次に、②意識は不都合なものでありうる。自らの欠陥に対する意識は私を苦しめるし、人間という存在のあり方についての意識は不安を呼び起こすばかりである。あるいは不公正の横行や決定論といったものを意識すると幸福への気持ちが削がれる。とはいえ、決定論のようなものを意識するということが、そこから自由になる唯一の方法だとは言えないか?

最後に、③意識的であることで自由になれる。意識がなければ、幸福も自由も経験できない。ところで倫理に関して言えば、良心は尊重すべき理想をもたらしてくれるが、ひとはそこに到達することはできない。しかし、良心/意識は私の存在を前へと投げかけ、それにより私たちはたえず変化を受け入れることができるようになる。

そして結論。「意識は重荷として経験されうるが、しかし同時に自らの限界について意識的であることで、私たちは自由になれる。 *やってはいけないこと、意識/良心の肯定的な側面を書き落とすこと。」以上のような議論を自らの定めた構成に従って展開しつつ、適切な長さのフランス語にまとめれば試験はクリアとなる。

付録

ページの残りの部分には、主題に関係する哲学書の引用——ここではデカルトの『方法序説』からのもの——や、主題に関連して読んでおきたい文献のリスト——ここではパスカル『パンセ』、サルトル『嘔吐』、デカルト『方法序説』、アウグスティヌス『告白』が挙げられている———が配置されている。これらも、ある程度まで憶えておくべきものとされる。適切な箇所で適切な引用を行うのも重要な評価点らしい。余談だが、数年前に翻訳され話題となったローラン・ビネの『言語の七番目の機能』のなかでも、地下闘技場のような場所で「賭けディベート」を行うフランス人たちが、さまざまな哲学者をその場で自由自在に引用して議論を展開していたが、あの描写もこうした教育背景をもとに考えるとあながちぶっとんだ空想とまでは言えないのかもしれない。

そしてチャプター最後の4ページ目には『ル・モンド』誌から主題に関わり、かつ現代的な視点から書かれた記事が掲載されている。「意識/無意識」のチャプターでは、神経科学と精神分析との関わりを論じた「フロイト的無意識を神経科学のふるいにかける」というタイトルの記事が掲載されていた。こうした時事的なテーマを絡めつつ論じるとより良いとされているのかもしれない。

また全体のページの中ほどに、知識面での確認をしてくれる小テストのようなものがついていた。これは日本での「倫理」科目で見るような問題と似ている。

「弁証法」という論理

しばしばフランス式の論理は「弁証法」という語によって特徴づけられる。日本でときおり教えられるそれとは異なり、弁証法とは本来、実にダイナミックで生き生きした論理である(「生き生き」していることをことさらに強調する傾向は、それはそれとして考え直す必要はあるものの)。弁証法というのは、まず一つのテーゼがあって、それを否定するアンチテーゼがあって、それらをうまいこと考え合わせるといい感じの第三のテーゼ、ジンテーゼが出てくる、みたいなことではない。

テーゼとはまずもって現実に対する一つの態度決定であり、何が何でもそれを擁護するという姿勢の下で立てられるものである(「人間には意識があり、この意識こそが人間を人間たらしめている、意識がなければ喜びもなにもない」)。しかし、そのテーゼをもって現実と向き合い、徹底的に突き詰めて考えていくなかで、どうあがいても元のテーゼを否定せざるをえないような事態に逢着する(「意識とは同時に良心でもあって、むしろ自らを縛りつけるものである、意識がない方が自由だ」)。そこでようやく出てくるのがアンチテーゼであって、単に元のテーゼに否をつけるだけで出てくるようなものではないのだ。

このアンチテーゼをもって世界への理解が更新され、それで解決となればよいが、大抵の場合そうはいかない。テーゼとアンチテーゼはしばしば矛盾しつつ両立するものなのである(「確かに意識は私を縛り付けるが、しかし意識がなければ肝心の自由を享受することもできないではないか、それはむしろ完全な非自由ではないのか、でも確かに意識があると自由でなくなる気もする……」)。こうした矛盾は容易に解決されない。それでも粘り強く考えていくと、矛盾によって結びつく二つのテーゼにはある共通の前提が隠れており、それを明るみに出せば解決の糸口が見えるのではないか、ということに注意が向く(「さっきから自由、自由と言っているが、ここでの自由とは一体何からの自由なのか? 絶対的な自由などありうるのか? そこをはっきりさせないと答えは出ないのではないか」)。すると、先ほどまで目の前にあった矛盾は、混乱した前提のもとに行われていたがゆえのものであったことに気がつく、あるいは相反する二つのテーゼは同じ事態の二つの側面でしかなかったことに気がつく。そしてあらたなテーゼが提出される(「私たちは意識、より正確には自己意識において自らの限界を知ることでこそ、そこから自由になる可能性を手に入れることができる」)。こうして出てきた新たなテーゼはしかし、またもや次の思索運動へと向かい、と続いていく。これが弁証法である。

フランスの高校生は、哲学の内容もさることながら、こうした弁証法的な論理展開に従って問題を加工し結論付ける訓練を受ける。大学以降で課される小論文はおおよそこの形式で書くことが求められるからだ(もちろんアメリカ式の「論理」を取り入れている分野もあるだろうが)。ちなみにフランス語の政府公認語学試験であるDELFやDALFといったテストでもこの力が問われることになる。与えられた文章を読み、そこから一つのテーゼを取り出し、またそれに対するアンチテーゼを示し、その両方を吟味して一定の説得力のある結論を出す力。それを正確なフランス語で表現する力。それが「語学力」の範疇に入れられるのだから、彼らがどれほどこの「型」を重視しているかが分かるだろう(いまだ日本式教育から抜け出せない筆者はこれがとても苦手で途中であきらめてしまった。フランス留学のなかで何とか身につけたい……)。

哲学を「教える」こと

冒頭に戻ると、筆者である私にとって喜ばしかったのは、哲学をひとに「教える」という場面において一つのモデルが示されたという点である。もちろん私自身も学部や修士の過程を通じて哲学やその他人文学についての教育を受けてきた。しかし、そこで行われていたものが、初学者やそもそもあまり哲学にフェティッシュ的な愛着をもっていない人びとに対し哲学を「伝える」という点において有効だとはどうしても思えなかった。例えば、一応「哲学史」という標題を掲げた授業でも、他はほとんど教科書レベルの説明なのに担当者の専門領域になると突然驚異的な精度の議論が始まる。あるいは、哲学についての基本的な知識も蓄えていないあいだに、何年も続く原書講読の授業へと途中から放り込まれる。もちろんそれらは刺激的ではあったし、哲学史的に基礎的な議論なぞは自力で学んでおけという暗黙の指示——それぐらいでなければ付いてこられないぞ、という——だったのかもしれないが、しかし哲学が狭い領域に閉じこもることにはもはや何の意義も正当性もない。他方で、哲学用語を使わず、哲学者の名前もビッグネームを除いてほとんど出さず、極めて卑近なトピックにおいてのみ哲学的に論じてみる、という態度ではこれまでの歴史が積み上げてきた哲学のポテンシャルを十分に発揮できず、ときにはそれを軽視する態度を醸成してしまいかねない。哲学は必要以上に難解であってはならないが、かといって考えるべき問題より平易であってもならないのである。

『『ル・モンド』で復習』本は、この点で極めてバランスの取れた本だと思う。内容について言えば、日本の大学である程度積極的に哲学を学べば、特に目新しく感じるようなものはない。むしろどちらかと言えばつまらないトピックの方が多いのかもしれない。しかし、「知覚」とか「労働」とか「正義」とか、その手の抽象的な概念について推論しそれをもってひとと議論するための方法、「思考の型」がそこでは示されている。これを見て私は「そうか、こうやって教えればいいのか!」と、自由になった心地がした。各々の哲学者の議論を、ある程度まで簡略化することを恐れずにしっかりとテーゼとして取り出し、それらが闘う舞台として哲学を示すこと、これならある程度のヴィジョンを立てることができるような気がする。もちろん筆者が実際に哲学教師のような立場につくか——つけるか——どうかはともかく、そのような心構えでいれば先を過剰に恐れることはない、そう思えたのだ。

ここでフランス式の哲学教育を手放しに賞賛したいわけではない。それはそれで型に嵌ったやり方であり、哲学はもっと自由に開かれたものであるべきだという議論も当然ありうる(ドイツ式、イギリス式、アメリカ式、日本式等々の哲学も当然ありうるし、現にある)。またフランス人が全員哲学をマスターしていると考えるのもまた見当違いだろう。それは日本の義務教育が全員にマスターされているかどうかを考えれば分かることだ。しかし、示された上で受け入れたり、反発したり、習得しなかったりするのと、そもそも哲学なんぞどこから手を付けていいのかすら分からないというのではまったく状況は異なる。こうしたフランス式哲学のあり様が伝わっていけば、「哲学って答えがないんでしょ?」などと聞かれることも減っていくだろうか。

お知らせ―—『SAPA』第五号制作開始!

新たな体制のもと、『SAPA』vol.5の制作を開始しています。より深く、いっそう煮込まれた議論をお届けできるよう頑張りますので、どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

野上貴裕(哲学・思想)


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