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追悼 石井隆さま

映画監督で劇画家の石井隆氏が2022年5月22日に亡くなった。数年前よりガン闘病中であったという。「ああ、この人もついに居なくなってしまった」。今は石井氏と賀状の付き合いしかなかったが、寂しさがこみ上げてきた。

初めて石井隆作品を知ったのは、私の日活デビュー作「縄姉妹・奇妙な果実」の原作であった。心が微妙に揺れ動き、真意がさっぱりつかめないハタチ前後の女心。この原作に惹かれ、この映画の監督らの勧めで石井作品を読みだした。
 私はまさに二〇歳で、その頃いくぶん心が病んでいた(その心理状態はかなり続いたが)。何だかわからない寂しさ。一人でいたいのに独りが辛い。甘えたいけど突っ張りたい。その心の歪みを整えるのは性行為であった。
 そんな心理状態で石井氏のヒット作「名美」シリーズを読みだしたのだからたまらない。1話完結作品だが、主人公はいつも「名美」。男との関係が上手くいかず、なぜか闇に堕ちていく。とことん追い詰められる名美。そんな名美のストーリーを自分に当てはめ、わざと落ち込んでいく。バーボンをロックであおり、泣きながら何度も読み返す。こんな「名美ゴッコ」が大好きだった。

 いや石井隆氏の劇画を知らない人も多いか。氏は監督になってから、劇画時代のことについて慎重に語るようになった。劇画時代に蔑まされた「三流エロ劇画家」というレッテルに嫌気がさしていた。「ああ、どうせ・・の人でしょ」。そんなミーハーな人たちの言葉と迫害を恐れていたから。そして現実はそのミーハーな人たちがトップにいることも知っていた。
 
 石井氏は少年の頃から油絵をやり、映画が大好きだった。大学では映研に入り、監督を目指すも、喘息持ちで現場に適さないと思い、挿絵やカットなど描くようになった。
 十代の頃「奇譚クラブ」と出会い、投稿するようになる。心の中ではアブノーマルが育ち始めていたのだ。
 そして時代は子供漫画から青年コミック誌、劇画時代となり、二九歳で「ヤングコミック」デビュー(それ以前にはSM誌で描いている)。三一歳の時「天使のはらわた」が劇画シリーズ化し、日活の映画化にも繋がった(石井氏の映画化を熱望したのは日活企画部にいた故成田尚哉氏である)。

 私が石井氏に初めてお逢いしたのは、日活の撮影も済んだ頃、1984年頃であろう。白夜書房超変態雑誌「ビリー」の企画撮影である。名物編集長N氏からの電話。「早乙女は石井隆のファンなんだろ。逢わせてやるから企画やらない?ちょっとハードだけど」。どうやら企画に石井氏が絡んでいるらしい。内容は「串刺しされる女」であった。石井氏は死体写真にも興味を持っていた。相模湖近くの雑木林での撮影。細めではあるが原木を口にくわえ、股間から突き出ている、といったトリック串刺しだが、顔の角度、体の向きなど石井氏の指示は事細かで身体はキツく、私は筋肉痛となった。
 以来、私が手紙を出したりなど交流が始まった。私が初めて自主公演をした1990年。ポスターを描いてもらった。その少し前にある劇団のポスターを描いているのを見たから、図々しくも頼んでみた。渋る石井氏に「だって・・で描いていたでしょ」と畳み掛けると「描いて失敗したな。わかった。描くけどこれきりだよ」。せっかく描いてもらうなら、と私は石井氏の画集「さみしげな女たち」(喇嘛舎)の中でみた絵、大きな波をバックに砂浜で女が倒れている、というのを提案した。

「簡単に言うけど、これ描くの大変なんだから。そんな絵を君のために描くの?」
 
 実は私、簡単に考えていた。背景は描いたのがあるのだから、それにそれっぽい女性をはめ込めばいいんじゃない、なんて。石井氏はそういう人ではなかった。まず私のデッサンから始まった。
「名美の顔はダメだろうけど、別に私でなくていいですよ。どんな顔でも」「僕はね『名美』以外の顔は描いたことないの。他の顔なんて描けないよ」。
 私の安直な考えが苦労をかけていたことを知った。その時に(その後だったかもしれないが)、奥様の写真を見せてもらったが、そこには「名美」そのものがいた。「いつもそばにいるからデッサンしやすいし、彼女以外の顔を描いたら失礼でしょ」。石井氏のこの言葉に感激した。と同時に、奥様が「名美」でよかったとも思った。石井氏は繊細な人なんだ。繊細だからこそ、女の微妙な心が表現できるんだ。
 そして素晴らしいポスターが完成した。大波がたつ浜辺に人魚の私がいる。この原画は他では公開されなかったので、石井マニアの間では貴重な作品となっているらしい。

1990年マゾヒスティック・ラブストーリー

 某誌のインタビューで石井氏は奥様のことについて語っていた。同郷(仙台)で学生結婚したものの、氏は東京の大学。遠距離恋愛であった。卒業後も仕事がなかなかうまくいかず、逢えない寂しさ、切なさ、苦しさ距離感など絶えず苛まれていたという。そんな想いが劇画、いやストーリー作りに反映していた。
「痛みを感じる女」
「女のドラマ」
これは映画監督になっても変わることはなく、むしろ「女の心」がしっかり描かれるようになった。

そして1988年。念願の映画監督デビュー。自身の作品「天使のはらわた」であった(この企画を立てたのも故成田尚哉氏である)。その後1992年大竹しのぶ主演「死んでもいい」が大ヒット。私は初め「大竹しのぶが名美?」と、ちょっと戸惑ったが、演技力でグイグイ引き摺り込んでくれ、ちゃんと「名美」になっていた。この作品はキャスティングも本当に素晴らしく、石井作品の描く心理状態がわかりやすく、女の情念を描く監督として定着していった。
 
 2004年団鬼六原作「花と蛇」映画化の際連絡があった。緊縛師を紹介してほしいとのこと。何せ過去は封印していた石井氏。SM関係とはまったく疎遠で、状況がわからない。「緊縛師は今もおじいちゃんしかいないの?」「ラバーのコスチュームはどこで買える?」など質問が続く。
 今回緊縛師を紹介するにあたって難しいのは、緊縛師も演者<鬼源>として登場することだ。石井氏のシナリオを読ませてもらってイメージとしては、体の大きいがっちり系の中年男性、と思ったが、そう都合よくはいかない。さらに映画の緊縛は通常の緊縛テクニックとはちょっと違う。このnote「ロマンポルノとピンク映画」の項でも書いたが、テストを繰り返すカット撮影のため、長時間の緊縛が続くと共にカットのつながりが把握できていないといけない。つまり映画をよく知っていないとダメなのだ。
 当時は「緊縛調教」も流行っていて、若手の緊縛師も出てきていたが、マニアを縛るのとわけが違う。役者の体(肌)も十分に気をつけなくてはいけない。
 そしてもう一つ。石井監督はシーンごとのこだわりが強いことを知っていた。自分の絵が出来上がっているので、その絵に向けて緊縛できなければならない。緊縛師特有の「自分好み」には縛れないのだ。
 そうやって考えていたら、一人しか思い浮かばなかった。それが有末剛氏であった。有末氏は若い頃から雑誌撮影や、映画撮影の緊縛担当をやっていたから。それに氏は物事をわきまえている。「郷に入れば郷に従え」ができる人である。
 石井監督に有末氏の話をすると、監督は独自に調べ「彼が<鬼源>ですか?」と問われたが、今書いたような説明をし、納得してもらった。実際撮影に入ってから有末氏で良かった、と思ってもらったようである。

 そして「花と蛇」完成後はインタビューも受けてくれた。SM雑誌「マニア倶楽部」(三和出版)でのインタビュー。インタビュー現場ではサービス精神旺盛な面を見せてくれたが、原稿には厳しい。私の原稿には何回もチェックが入る。そして東映はこのSM雑誌に宣材写真をたっぷり使わせてくれた。
(私はこの映画クレジットで<SMアドバイザー>となっている)

ああ、もっと語っておきたかった。いや、逢える時間ができたとしても、私は緊張して話せず、石井氏は気を遣って場を盛り上げてくれるのだろうな。ダメな私。

石井隆監督。先に逝ってしまった奥様とまた、楽しくゆっくりお過ごしください。私は相変わらず「名美」を追い、まだ楽しませていただきます。今までありがとうございました。 合掌

参考文献「名美Returns」石井隆(ワイズ出版)

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