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思い出のストリップ劇場7「関西ニューアート」

 SMのメッカである大阪の劇場にはほとんど乗っていない。「オサダゼミナール」の時も1回しか行ってないかな。コースを決める事務所の関係かもしれないし、東京のSMは本質のSMではない、と思われていたかも知れない。そう、東京、関東ではあくまでも「ショー」として作られていたSMだが、関西では1970年代からより実践的な肉体のSMであった。
 ローソクベットショウで有名な初代一条さゆり氏は、真っ白な太い蝋燭を使ってのステージ。これは絶対熱かったはずだし、私たちSMショー仲間の間では仏壇蝋燭は要注意蝋燭である。なぜならその蝋涙は皮膚に火傷の跡を残すから。しかしさゆり氏はその熱さの苦しみ悶えが、迫真の演技へとつながっていき、客席では固唾を飲んでいた。

 「関西ニューアート」も1、2度しか乗っていないのだが(1994年頃)、強烈な思い出がある。
 住所は西成区鶴見橋2−91。地下鉄四ツ橋線「花園駅」近く。隣には大衆演劇の「鈴成座」がある。そう、ここは地域的にかなり怪しい場所。なので正直言ってステージとしての思い出はあまりなく「街」の思い出だ。

 1970年代には「鶴見橋ミュージック」として、SM系のショーも数多く乗っていた。その後1980年に「関西ニューアート」と改称。1980年代に大阪には7館の劇場があった。具体的に調べていないので、定かではなく申し訳ないが、私がデビューした頃の感じでは「東洋ショー劇場」「十三ミュージック」がアイドル小屋で「九条OS」はSM路線、というイメージがあった。

 西成区はご存じの方も多いと思うが、いわゆる住まいを定めてない方を受け入れてくれる地域である。そのためいろんな方々がいる。世間一般常識はほぼ通用しない。この地域独特のルールがあるところだ。
 「関西ニューアート」の近くには鶴見橋商店街というアーケードのある、割と大きな商店街がある。活気がありますよ。個人商店がたくさんあり、買い物、食べ物には苦労しなかった、というより豊富にありました。でも私は自炊していなかったので、つまみに惣菜を買うくらいで、あとは蕎麦屋に行ってたかな(屋号を覚えていない)。大阪のうどん、親子丼、めちゃ旨かった。しかし、アーケード内をママチャリで疾走するオバチャンにはまいった。数回ぶつかった事があり「わっ!」と声を発すると「アンタがボンヤリしてるからやろ。さっさと歩き!」と怒られた。

 大阪のストリップ劇場の特徴として、開演は遅く、終了が早い。確か12時頃開演、22時終演位か(若干の時間のズレがあるかも)。
なので自由時間がたっぷりある。
 午前中は散歩。「天王寺動物園」付近まで歩く。あの「通天閣」付近。午前中なので夜の賑やかさは全くないが、人間模様が面白い。いろんな方々があちこちでたむろしている。そして露店が並んでいる。地面にシートを敷いての露店もある。まるでインド。というか戦後すぐの日本がまだここにはある。
 その露店の商品も独特。カバン、傘、ベルト、靴。靴の片方、というのもあった。インドでも靴の片方を売っている露店なんて見たことがない。
 劇場までの往復約1時間。何をどうするわけでもないブラブラ散歩。私には楽しい1日の始まりであった。
 日中といえばちょっとした揉め事があった。
ステージで「火」を使っていたと思う。大きめの固形燃料の缶を使って火を
見せていた。万が一、火が制御できなくなった場合の即対処法で「砂」を使うのだが、劇場近くの小さな公園で、初日に砂を少しもらってきていた。もちろん最後は戻すつもりで。
 楽日、その砂を公園に戻している最中、おっちゃんから声がかかった。
「おい、何してんのや!その砂どうすんのや!」
「いや、ちょっと借りたから、返しに来てるんです。元に戻しているの」
「砂をどうするんや!ここから動かしたらいかん!何やってんねん。あんた誰や、どっから来たんや。ダメや!誰だ!」
私は掴まれそうになったが、かわし、とにかくここから離れようとした。
「私、踊り子なの。そこの劇場にいるから。ごめんね。おじさん、ごめんね」
「あかん!どこにいくんや!待て!」
私は言葉を振り切って逃げた。やばいおじさんに出会ってしまった。
やっぱり人間には要注意の地区なのだ。

 終演後、これはもちろん「飲み」である。私は飲み歩くタイプではない。ケチではないのだ。人見知りで、一見の店に入ってもゆっくりできないから。楽屋飲みが一番ラク。普段は楽屋で好きな時間に飲み始めている。台所がある劇場では簡単にウインナーを焼いたり、卵焼きを作ったりと手短に済ませる。
 ところがこの劇場では、台所に従業員さんたちも飲みに現れる(通常は従業員たちは終演後楽屋近くに顔を出す人は少ない)。そんなことでいつの間にか、台所で飲み会が始まる。
 プチSM大会があった時、仲良くさせてもらっていた先輩のピアねぇさんと一緒で、夜は台所で毎日のように飲み会をしていた。
(自縛の踊り子さんたちに関しての情報はいずれ上げます)。
ピアねぇさんはフレンドリーな人。従業員さんとも面白おかしく飲み会をしていたので、私も毎夜楽しかった。
 ここには3人の従業員さんがいた。その中でも腰の低く、照明も一生懸命にやる「番頭さん」と呼ばれていた方(このあだ名、ピアねぇさんが付けたのかも。話題にTVドラマ「細腕繁盛気」があったので)とよく話していた(私より4、5歳上だったのかな)。その週の後半になって番頭さん「実は今週で辞めるんです」と話してくれた。一番熱心だったので残念であったが、私がいる間はいる、という事に少し安堵した(自分本位でごめんなさい)。
 ステージ中のことは何一つ覚えていないが、この「番頭さん」がいてくれることに、安心してステージをやっていたことは確実。
 ところが番頭さん、楽日前にいなくなっていた。そして私に1箱のダンボールが残されていた。いなくなったことにショックを感じた。いや、楽日だとバタバタするからその前だったかもしれないが。
 ダンボールを開けると、お菓子や飲み物の他に、スリッパ、本物の(昔ながらの綿内された)ドテラが入っていた。泣けてきましたよ。失礼ながら、従業員のお給料はたかが知れている。この劇場をやめて次の仕事に着くまで、お金もかかるだろうに、こんなことしてもらって。正直いってドテラは趣味じゃないけど、心の温かさをしっかり受け止めました。そして実はこのドテラ、まだ持っているのです。内側はボロボロで綿も切れ切れになり、他の生地を縫って着続けている。

 ステージ中のことは、ここまで書いても全く思い出せない。よっぽど集中してステージをしていたのだろう。「火」を使っていたから演目は「サロメ」かも知れない。この演目は独り没入型になりやすいので。

 関西ニューアートの閉館は2016年4月。SM系が下火になった後、関西では「素人大会」が流行り出した。ごく普通の女の子がステージでクラブノリのダンスをし、脱いでいく、という(これのどこが素人だかわからないが)。ニューアートも「素人専門小屋」となった。その後ちょっと以前の劇場のように踊り子が戻ったようだが、結局、手入れがあり、閉館となってしまった。
 ステージとは全く関係ないが、ドテラの話、残せてよかった。人情味がある時期に乗れて、幸せだった。


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