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ストリップ資料けんさん1「ストリップ血風録 道頓堀劇場主・矢野浩祐伝」(日名子暁著)

 渋谷道頓堀劇場といえばこの名物社長抜きにして語れない矢野浩祐(やのこうすけ)氏。この矢野氏の自伝をルポライター日名子暁氏が書き下ろした傑作の文庫本である。私はこの本を何度となく懐かしく読み返すが、矢野氏の過去を知ったのはこの本からであった。

1998年出版幻冬舎アウトロー文庫 日名子暁著

 渋谷道頓堀劇場は、私がデビューした頃はすでにアイドル小屋であった。独自の専属踊り子を持ち、コントさんを抱え、昔ながらのストリップ小屋の流れを持っていた。私は「オサダゼミナール」として1、2回入ったきりだった。楽屋は個室だったものの、よそ者扱いされているのを強く感じた。そして専属踊り子さんは「守られている」と羨ましさを感じた。

 この本の中で、矢野氏の生い立ち九州、小倉時代のことが紹介され、いろんな事情で小指がないことも書かれている。矢野氏はヤクザであってヤクザではなかった。ライターの日名子氏はヤクザ関係などの裏社会が得意なルポライターであるので、その辺の組織関係も詳しく書かれていてとても興味深い。矢野氏がヤクザにならなかったわけもよくわかる。

 物事の流れから矢野氏は22歳でストリップ劇場関係にたずさわり、そして太夫元となる。それからストリップ一辺倒なわけだ。後年、私が矢野氏と出会ってから口癖のように「俺はストリップが好きや、また、ストリップしかできへん」という言葉を耳にしていたが、深い意味があったんだ、とこの場面で知ることになった。
 ストリップ劇場関係は、直接ヤクザと関わりがないものの、大きな流れの中ではヤクザを抜きには商売ができなかった。だからこそ、ヤクザの飯を食ったことのある矢野氏は、関わりのある組織から逃亡を続けなければならなかった。各地を流れ、渋谷道頓堀劇場に辿りついたのは1970年、矢野氏31歳の時であった。支配人という立場であったが、矢野氏はオーナーから経営の本質を学びながら、今まで培ってきたストリップ構成を発揮していった。しかし時代の流れには逆らえず、道劇でも外人ホンバンをやったりしていた。
 そして矢野氏が元ヤクザだったということが本命で道劇は検挙された。警察は暴力団組織を狙っていたのだった。矢野氏の拘留は40日間という異例のものだった。

 矢野氏出所後、オーナーは時代のズレを感じ、営業権を矢野氏に渡した(もちろん売ったわけだ)。そして1977年頃実質ともに矢野氏が渋谷道頓堀劇場の社長となった(借地であったが)。

 風が大きく変わったのは1984年の風営法改正であった。今まで性風俗店だけが規制されていたことが娯楽産業にも関わってきた。24時間営業の規制、ポスターやビラなどの規制など、これにより映画館、ゲームセンター、ストリップ劇場などダメージを受ける。ストリップ劇場については都内はかなり締められるだろうと予測されていた。
 矢野氏は大きな決断を迫られていた。このままイタチごっこをするのか、改革するのか、、。そして答えは「俺はストリップ劇場が好きだ」ということだった。

 ホンバンやハードな演目をやめた道劇はジリ貧だった。だけど矢野氏は自分の考えを信じ、ソフト路線で営業を続けていたが、ある友人の言葉で演出を思いつく。「ポルノの意外性、童話&ポルノ」。そしてギャラを抑えるために必要な劇場専属の踊り子。ギャラだけでなく、矢野氏の考えを直接伝えることができる。
 1985年2月21日。4人チーム「かぐや姫」誕生。その中の一人が脱落したことによりピンチヒッターとして清水ひとみ氏が加わる。そして矢野氏は清水ひとみ氏に賭けた。専属踊り子としてバックアップして行ったのだ。
 周囲の劇場関係者はまだ矢野氏のやり方に納得できなかったが、マスコミ関係が新風俗産業に目をつけ(ノーパン喫茶や覗き部屋などの乱立)、ストリップ劇場もその中に入り、テレビの深夜番組に取り上げられ出す。約3年間で「清水ひとみ」の名前は全国区になり、ファンは道劇に殺到した。

 時代はバブル期。渋谷の繁華街の土地は破格的な値となる。道劇のオーナーは土地を売ることに決めた。様々な問題が山のように沸き起こったが、矢野氏は「仁義に生きる」と口を閉ざし、道頓堀劇場を引き払うことになる。

 しかしまだ隠居するには早すぎる。矢野氏はストリップ劇場でできなかったことをやりたい、と考えていた。「お笑いとエロスをミックスした芝居」。これはストリップ劇場の原点である。矢野氏は自宅を売却し、資金を作り、渋谷センター街の奥にある、ビルの1スペースを借りた。1996年ミニシアター「シアターD」の誕生である。
 矢野氏は演出についての勘は鋭い。こんなことやったら面白いんじゃないか、こういうことが観たいんじゃないか、とアイディアが湧き出てくる。だけど、ストリップ劇場とミニシアターの客層に開きがあった。そして演者にも。矢野氏が力説してもファイトのある女優が現れなかった。オープン当初から少しずつ客足が落ちていく。

 私はこの時代に「シアターD」の噂を聞いていた。オープンは華々しかったものの「厳しいらしいよ」「いろんなことやっているみたいだよ」とあまり良くない噂だ。私はまだ矢野氏のことをよく知らなかったから、同業の吉見として頑張ってほしいな、と思っていたぐらいだ。
 そんな矢野氏から突然声がかかり「シアターD」に出演することとなったのは1997年。脱がないストリップ風なショーを企画したり、SM大会をやったりしていた。シアターDはストリップ劇場ではないので、コース切りとは無関係の付き合いだ。なのでコース切りに断りもなしに、矢野氏のオーダーを受けていた。

シアターDにて。下に座っているのは故明智伝鬼氏(緊縛師)中段左から蕾火氏、伊藤舞氏、
塔野あかり氏、早乙女、中央に立っているのが矢野氏


 この時に矢野氏の思いを少しずつ聞いていた。ミニシアターはいわば芝居小屋。バブルが弾け、どこの芝居小屋でも苦心している中、新参者でちょっとエロ路線の雰囲気がする小屋に、劇団は入らないだろう。一般ではエロスは敬遠されていることにあまり気づいていなかったのだろう。SMをやったことでまた、一般とは遠ざかったかもしれない。

 そんな時息子さんが「俺に任せてみない」と声をかけて来たという。矢野氏は不安ながらも、どうせ長期戦でじっくり構えるなら、それもいいか、と思ったそうだ。そして息子さんは「お笑い」に特化した劇場作りを始めた。

 また隠居か、と思っている矢野氏の周辺が慌ただしくなったのは1998年。「清水ひとみ興行」をしないか、という話が舞い込んで来た。矢野氏はタビ興行を懐かしく思い、早速座長「清水ひとみ」に話し、一座が組まれた。

 その時に矢野氏から連絡が来たのだ。一座に参加してほしいと。そして打ち合わせに矢野氏、ひとみ氏と飲みにいく。私はひとみ氏ときちんとお話したのはこれが初めてであった。デビューも同年代のひとみ氏と話は弾んだ。そしてお互いに無い物ねだりの話をした。私はひとみ氏が全て演出されたステージをやれることへの羨ましさを語り、ひとみ氏は自分一人で作る凄さ、自分の思うステージができることがすごい、という話をしていた。

 そして清水ひとみ一座は、浅草フランス座、大宮ショーアップ劇場、と回り、札幌では単独のショーが行われた。
 この札幌での公演がきっかけとなり、ビルのオーナーから声がかかり、「道頓堀劇場を復活しませんか。とりあえず札幌で。そのあとは渋谷、ということでどうでしょう」
矢野氏は耳を疑ったが、こんな話はもう二度とないだろう。
矢野氏は決断した。

本文の最後は
「矢野浩祐、60歳、北へ!」

 この文庫本を要約した文面となったが、これは是非、読んでほしい本である。日名子氏の切れ味のいい文面はすっきりとしていながら、心に響く。札幌道頓堀劇場については、別項目でいずれ書くつもりだが、現在矢野氏は行方不明。生きているかもわからない。だからこそ、この本の価値があると思うのだ。
 ストリップ界において改革をした一人として、矢野氏のことを忘れて欲しくない。そして私は矢野氏に逢いたい。ストリップ談義を熱く語り合いたいと、願っているのだ。

 

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