絶対的価値観を持つ幸福と至福♥️相対的価値観に合わせる不幸。
時代は変わるのに、相対的価値観で自分を判断するってあまりにも退屈で不幸だなと思いますね。
相対的価値観の最も代表的なものは、
勝ち負け、優劣、人からの評価、承認欲求。
まあ、承認欲求が強いから優劣に走るんだけど。
んで、それって自分で自分を満たすことをサボって他人に委ねてるからいつまでも満たされないだけで、
自業自得、以上!!
絶対的価値観を持つと、
「私はこれが好き!」と言える。
例え100人が嫌いだと言おうと言える。
分かり合えないことを知っていて受け入れている強さです。
例えば、感動するものなんて千差万別。
自分の感動を全く同じように共感する人は極めて少ない。
それをわかっていて、表現できるのが絶対的価値観を持つ人。
人にわかってもらえなければ、言わないのが相対的価値観で生きる人。
もっと言うと、自分は対して感動してないのに世間が感動しているから感動したぶるのも、
世間が政府やコロナを批判するから乗っかるのも相対的価値観で生きる人。
感性あらへん。
私、めちゃくちゃ箱根駅伝が好きなんです。
号泣しまくるぐらい好きで好きで、感動するし、
魂が疼くんです。
箱根駅伝は人間が走っているけど、
それぞれの魂がキラッキラに輝いていることを感じるから共鳴するんです。
で、この熱量を話しても基本、伝わらない。
分かり合えない。
それぞれに見方も感じ方もあるから当たり前で、
相対的価値観で生きる人には何にも伝わらなくて当たり前なんです。
「頑張ってるから凄い」
「努力してきたんだね」
「一生懸命は感動するね」
とか、そういう世間一般が述べる目線で見ている人には通じないんです。
絶対的価値観って、世間一般なんて基準に沿わないもん。
私が感じたことが全て。
毎年、箱根駅伝のレビューを熱く語る私に友達が
「凄まじい感動は伝わるけど、どうしてそこまで感動出来るかわからない」
って言うんだけど、
分かり合えないことをわかり合っているんです。
これが調和です。
風の時代で言われる愛と調和。
耳障りのいい言葉に飲まれて、本質を捉えないのが相対的価値観。
思考を使うポイントがいつもミステイク。
わからないことをわかり合うという絶対的なことがあってはならぬと思っている人が次に起こすアクションは、
知ったかぶり。
全てを知っていたら面白くないのにね。
そんな人生、私は退屈です。
ワクワクドキドキしないじゃん、全てを知っていたら。
驚きも喜びもないじゃん。
あまりにも相対的価値観で生きる人が多かった地の時代。
今だって、変わらず相対的価値観で生きる人は多いし、相対的価値観で生きる人に合わせてなんぼだという相対的価値観を持つ人だらけだけど、
誰が幸せになるん??
常に自分の感性を殺して誰か知らんオバケに合わせるなんて不幸だし、
不安ですよ。
地球と宇宙と繋がっていれば、不安って滅多に湧かないです。
↑この件に関してはまた違う記事に書きます。
例えば、
「クズ」は相対的価値観で言えばダメでしょう。
しかし、相対的価値観に生きる人がクズをチョイスするんだけどね。笑
絶対にクズだと認めないけど。
私は、
「私はクズが好みなの!」
って言える人が好きです。
だって好みに正直じゃん。
私はクズは嫌いですよ。
しかし、そう断言できる人の在り方は好きです。
調和、個の時代ってこういうことです。
「世間ではクズはダメだからクズだと認めないでおこう、なぜなら私の評価に関わるから」
などと脳内で戦略を立ててる人の在り方は普通にキモいです。
捻くれてるんじゃなくて、相対的価値観に依存しすぎ。
だから、目の前のクズにも依存する。
人からの評価に依存したふりして、自分で自分を評価しているだけです。
自分で自分を評価するって、相対的価値観で生きてるからこそなせる技。
だからよ、優劣や勝ち負けに過敏なのは。
そんなことに過敏になるのが大好きなんです。
趣味わるっ!!
って私は思うけど、大好きな人たちは大好きなんだからね、趣味嗜好の違いです。
超流動する相対的価値観より、
私は私が感じることを大切にしたい。
私は私の絶対的価値観を大事にしたい。
愛という絶対的なものが源の私は、絶対的なもので生きていく♥️
愛という絶対的なものに、相対的価値観は付随できないし交わらない。
愛すること、これも絶対的なもの。
愛してほしいというのは、大抵の人が相対的価値観から思うだけ。
「愛してる」それだけでいいじゃん。
って心底思えるほど愛せないのは、やはり、
評価だの価値だの相対的価値観に振り回されているからです。
しかし、絶対的価値観と相対的価値観のバランスってあるからね。
これが最も重要🌹
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