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魔法を求めるときの自分は、どこか依存的

この病気が、寝て起きたらすっきり完治している…そんな魔法があればどんなにいいだろうと思ったことは一度や二度ではない。

子どもの頃から常に、疾患や不調と共にあった。「いまは何ひとつ体の不調がない、健康体!」と言えた時期はまったくなかったと思う。アトピーやら脱毛症やら、常に何かしら体に不都合が生じていて、命に関わるわけではないけれど生活に不便なことばかり。それによって日常生活において我慢したり諦めたりする事柄も多い。

風邪ならば完治するけど、それらは体質から来る慢性疾患で、調子がいい時はあっても、「完治」はない。季節の変わり目や生理周期などに翻弄されて、調子は上がったり下がったり。早寝早起き、十分な睡眠、栄養バランスの取れた食事、ストレスの多すぎない生活…そんな面白みのない規則正しい生活こそが症状を安定させることを知っている。

だけど、たまに「魔法」が欲しくなる

この治療法を試せば「体質改善」されて、完治も夢じゃないかもしれない、そう思わせてくれる治療法。この不調から永遠に解放される治療法。ここで言う「治療法」とは、たいていすこし極端で、専門家から見るときっと破綻しているのだろう。でも手を出してしまう。

辛い思いをして、時にお金もたくさんかかって、この辛さを乗り越えれば、完全に解放される、と夢を見てしまう。辛ければ辛いほど、魔法の効果は高いのだと信じてしまう。今から10年ほど前、仕事を2度休職してまで取り組んだ「脱ステロイド療法」もそうだった。結局、4年耐えたある日、ふと我に返って止めたのだけど。

「規則正しい」生活を営む自分は、自分の体調を自分で観察して、体にやさしいほうを選んでいる。それは、自分の体の選択権を自分が握れている状態だ。では、「魔法」を求める自分はどうだろう。狂信的に治療法にすがる自分はどこか依存的で、正常な判断を避けていたかもしれない。辛い治療にただただ耐えるうちに思考停止して、「明るい未来=体質改善ののちの完治」だけを盲信していた。

自分の身体の選択肢を、専門家の意見を借りつつも最終的には自分で決められる状態は、心地よい。一方の「魔法の治療法」は、そもそもの切り口が、既存の標準的な治療法への否定や脅しで、それって入口からして心地よくなかったな、と。今、冷静に振り返ってみると、そう思うのだ。

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