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病気の治療を、止めるとき。そこで選ぶ「心地よさ」

これまでいくつの治療を経験したか、それにいくら払ったか、もうカウントしきれない。子どもの頃から、命に関わらないとはいえ常に疾患とともにあった。そんな私を指して、大学の友人は当時の某政治家の言葉をもじって「さおりは疾患の総合商社だね」と表現したものだ。

過去の治療、それぞれに始まりがあって、終わりがあった。風邪や虫歯、骨折のように「治ったので、これで終わりですよ」と終わるものは良い。すがすがしい気持ちで病院を後にできる。それが、原因不明の慢性疾患だとそうはいかない。

治療を止めると決めたときの、絶望と希望

先月、とある治療を止めることにした。公的な治療ガイドラインには掲載されてるものの、効果のほどは不確かで、それでも試してみようと決めた治療法だった。とりあえず、1年間。効果がなかったときの悲しみを軽減せんと先回りして「期待しないように」と、希望は押し殺して淡々と通った。

いい兆しもあったのだ。でも、結局なぜか悪化に転じてしまった。悪化した原因もよくわからない。

「あ、もう止めよう」と思ったときの気持ちは、絶望と希望。やっぱりだめだったか、という「絶望」。効果の見えない治療法にすがり続けず、見切りを付けられた爽快さや、新たな治療法との出会いを思い描く期待、そんな「希望」。この二つが、複雑に入り混じっていた。

今は、逃げることが「心地よさ」だった

と、上段で気持ちよく終わりたかったのだけど、ノートに書いて整理していると、さらにいろんな感情が顔を出した。その核にあったのは「かわいそう、だと思われたくなかった」という思い。1年間通って、顔馴染みになった医師や看護師に、悪化していく姿を見せたくなかった。長年、疾患とともにあると「かわいそう」の言葉が常にそばにあったので、過敏になりすぎているのかもしれない。

治療を続けたら、悪化の仕方もマシだったかもしれないし、ある程度は食い止められたかもしれない。それでも「かわいそう」を避けたくて、治療を止めた。これが今の自分の「心地よさ」を選んだ結果。「心地よい」って、クリーンなイメージとともに「良い意味」で使われることが多い言葉だけど、必ずしも、そうとは言えないこともあるだろう。今は逃げたい、毛布にくるまって自分を守りたい、そんなときもあるのだ。だからこそ、ときには「心地よい」を捨てるタイミングも必要なんだろうな、とも思っている。

なんの疾患か、なんの治療法か、まったく曖昧だけど、今はまだそこまで書ける気持ちの段階にないので、このままで。命には関わらない疾患だからこそ、治療を止められたわけではあるのは、もちろんです。

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