創作「初めてのおつかい」
私は今、妙に緊張をしている。
それはこれから始まる物語への渇望によるものなんだけど、理由はそれだけではない。
左手にはメモ帳。そして右手には滑らかに動くボールペンを手にしている。
準備は整った。さあ、ひとつやってみよう。
私が深呼吸をして、座席のクッションに深く沈み込むと同時に会場のあかりがすべて消えた。
私は映画の感想をうまく人に伝えるのが苦手だ。見ている間にしっかりと感情は揺れ動いている。登場人物が体のどこかを痛めれば、同じように私の体も痛く感じるし、いいことがおこると飛び上がりたくもなる。涙腺は開放するし、笑いも遠慮したりしない。私は映画を十分に味わいつくしているはず。
それなのに、映画を見終わって映画館を出るときには、「あー、よかった」しか感想が出てこない。
そんな私に依頼をしてきた人がいた。
私が働いている老人ホームに暮らすご婦人だ。律子さんは私にこう言った。
「今やっている映画が見たいけれど、出かけられない。もうちょっと体力をつけて外出するためのパワーが欲しいから、山下さん、映画を見に行って感想を教えてくれないかしら?」
律子さんは私の悩みなどつゆ知らず、無邪気にお願いと言ってきた。
元気になるために、と言われれば動かないわけにはいかない。
私は映画を見ながら、手元を動かし続けた。いつも仕事で研修する時も、手元を見ずにメモをとっている。それならばできないこともない。
律子さん、スピード感のあるはじまりだったよ。
律子さん、意外な人の一面が見えたよ。
律子さん、あっっ!こんな展開になるなんて!
私は映画を見続けた。一心不乱に画面を味わい、メモを書き殴る。一人で見ているはずなのに、隣に律子さんがいるような気がした。
出来上がったメモは最悪のものだった。メモとは到底言えない。文字が同じ位置に何度も書かれて重なって見えなくなっている。子供の落書きよりは秩序がある汚れ具合は、かえってそこに書いてあるものをわからなくさせた。
私は半ば予想していた結果に笑った。
でもこれは私から律子さんへの手紙だ。持ち帰って、そっくりそのまま見せながら、映画の話をしよう。そして出かける約束をしよう。
<三題噺の練習/30分>
1つ目は『映画館』
2つ目は『手紙』
3つ目は『殴る』
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