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2007年07月05日(木)

 この頃、毎朝ベランダを覗くのが楽しみになっている。それは、誕生日に友人が贈ってくれた白薔薇が早々に蕾をつけてくれたからだ。本当は切ってやったほうが今年はいいのかもしれない。散々迷った挙句、私は花が咲くその瞬間までを楽しませてもらうことに決めた。だから、一日一日、ほんの少しずつだけれども膨らみゆく蕾が楽しみでならない。
 挿し木したオレンジの薔薇も紫陽花も、順調に育ってくれている。見上げるとこの頃はいつも曇り空。昨日は一日中雨だった。長雨は梅雨だから仕方がないといわれればそうだけれども、それでも、思わず呟いてしまう。お日様が恋しいねぇ。もちろん葉々が声で返事をしてくれるわけではないのだけれども、微かに揺れる影が、うなずいているように見える。
 そして今日、うって変わって、蒸し暑いものの晴れ渡る空。夕方近くになって空の片側が雲に覆われたけれども、それでも、これなら久しぶりに娘もプールに入ることができただろう。緑の葉々も、嬉しげにひらひらと輝いている。

「苦痛に焼き尽くされて、本質的でないものはすべて溶け去りました。人間は溶けだされて一つになり、その正体をあらわしました。それはつぎのどちらかでした。ある場合には、その正体は、大衆のなかのひとりでした。つまり本来の人間では全然ありませんでした。つまりじっさい、どこの誰でもない人間でした。匿名の人間、名もない「もの」、たとえば囚人番号でした。人間は今となってはもうそういう「もの」でしかなかったのです。でも、またある場合には、人間は溶融されてその本来の自己にもどったのです。…人間はありのままの実存に連れ戻されたのですが、この「実存」とは、まさしく決断に他ならないからです。(中略)
 …私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
 こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても、こわくはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。(中略)
 …どんなことが自分を待ち受けているかは、だれにもわからないのです。…どのような重大な時間が、唯一の行動をするどのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているか、だれにもわからないのです。」
(V.E.フランクル記)

 不安が続くと、つい、あれやこれや余計なことを考えてしまう。最近は特に、そうした瞬間にぶちあたる。いくら憂いたって仕方がないと頭ではわかっているものの、ネガティブとポジティブだったら、ネガティブの方に傾くのが人間の傾向ともいえる。だからこそ、そんなときに私があえて思い出すのがこれらの言葉たちだ。
 そして自分に言ってみる。明日を憂うなら、その分、今日を精一杯生きればいい。今日を精一杯生きることができなければ明日なんてない。極端かもしれないが、そんなふうに鼻歌で歌って、自分を励ます。
 穴ぼこはいくらでも空いている。そこに足をとられてしまうのは仕方がない。でも、足をとられたままでいるのか、それとも引き抜いて次へ歩を進めるのか。休むのでも、穴に足を突っ込んだまま休むのかそれとも足を引き抜いてそこでぺたんと座って休むのか。ただそれだけでも、現実は異なる。

 郵便受を覗くと、久しぶりに北の町に住む友人から手紙が届いている。封を開け、便箋を開く。微かに風の匂いがする。
 「お元気ですか。こちらはぼちぼちです。と書くと、貴女なら「生きてますか」と書いてくるんだったよなと思い出します。あの台詞を最初に聞いたときは、思わず吹いてしまいましたが。今では懐かしいです。
 …久しぶりに栞を作りました。きれいでしょう。この町の道端で健気に咲いていた雑草たちです。でも、美しいです。
 貴女の友人たちにもおすそわけ。何枚か一緒に入れておきます。ぜひ貰ってください。かしこ」
 名前を挙げるのももったいない、今では私の町からさえいなくなりかけている雑草の花々が、和紙の栞にうっすら浮かび上がっている。指でそっと撫ぜる。まるで友人の体温が、すぐ隣にあるかのような錯覚を覚える。
 また一通、宝物のような手紙が届いた今日はあと僅かで終わる。そのあと僅かを、私はどれだけ彩り豊かな時間に染め上げられるだろう。もうじき娘も帰ってくる。娘との時間をどれだけ濃密に、かつのんべんだらりと過ごせるだろう。それを楽しみに、キーボードを叩き続ける。そして窓の外には。
 また一段と膨らんだ、白薔薇の蕾とめいいっぱい傾いた太陽の陽光。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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