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2009年09月12日(土)

どんよりとした雲の下、目が覚める。何処を見ても雲だらけ。しかも灰色の。昨日の続きのように気持ちがどんよりする。しかし、それに呑まれるのは悔しいから、長い髪をばさりと振って、ベランダに出、髪を梳く。
ベランダから部屋を見やる。一番手前に金魚の水槽。その水槽を覗き込む。胸がじんじんする。大丈夫だろうか、まだあの金魚は大丈夫だろうか、じんじんと鳴る胸を抑えながら私は覗き込む。かろうじてまだ生きている。でも。昨日とはまた違う、もうほとんど口をぱくぱくもさせなければ、ただ水に浮かんでいるといった風情。こういう姿を見ると気持ちが参る。何も声をかけられないまま、私は水槽を離れ、流し場で水を一気に飲む。

ミルクとココアの様子を見る余裕もなく、朝の一仕事を始める。まだ娘は起きては来ない。しばし自分だけの時間。
昨日はそう、朝の時間だけが心地よかっただけで、その後はばたばた続きだった。仕事がひとつキャンセルになり、その後家に戻れば学校から呼び出し、それが終わったと思ったら父から暗い言葉。
今思い出しても憂鬱になる。

帰宅した娘に、大変だったね、と声をかける。娘は副校長をつれて帰ってきたから、私はとりあえず応対に出る。本当に申し訳ございませんでした、担任にはよくよく注意しておきますので、本当に申し訳ございません。それを繰り返すばかりの副校長。そりゃぁそうだろう、繰り返す以外、何の言葉があろうか。私はそれに、ハイ、ハイ、と応えつつ、これだけはと思う点を再度繰り返す。
部屋に戻ると、娘が明るい声で、ママ、副校長先生とお友達なの?と聞いてくる。何で?と聞くと、この前話したとき、副校長先生はママと友達になったって言ってた。そうなんだ、ふーん、じゃぁお友達かも。だから先生に何でも言いなさいって言われた。そうなんだ、そうだね、担任の先生に言いづらいようなことでも、副校長先生に言えばいいよ、何よりママに言ってね。それに対する返事はない。ね? 繰り返すと、うんうん、と適当な返事が返ってくる。分かっている。娘はすぐにどうこう口に出すタイプの子供ではない。溜め込んで溜め込んで、それでも自分で消化できないとなったとき、初めて口に出す、そういう子供だ。それだからなおさらに繰り返しそうになる。ねぇ、ママにくらい、何でも言ってよ、ね? でも私は、繰り返すことができなくて、ただ娘の背中を見つめる。

娘を塾に送り出すと、電話のベル。父からの電話。父が突然、思ってもみないことを言い出す。気持ちを落ち着けて話を聞かないと。そう思いながらも、まだ学校の出来事をひきずっている私は、落ち着いて彼の話を判断することができない。気持ちは分かる。こう言い出す気持ちも分かる。しかし、何故今?
小一時間。彼の話は続いた。彼がどれほど今、自分の年齢に対し心細くなっているかがとても伝わってきた。痛いほど伝わってきた。だから何とか応えたい。応えたいけれど。
「ごめん、ちょっと考えさせて。今すぐに返事できない」
私はそう応える。ごめん、父さん、私はこのことを、すぐに判断することができない。ちょっとでいいから時間をください。電話に向かって頭を下げる。心の中で、こんちくしょう、よわっちい自分、と自分を罵りながら。

いつの間にか雨が降り出した。まだ小雨だ。しかし、しっかり降っている。私は娘に声をかけ、おにぎりを用意する。娘が苦手なちりめんじゃこ入りのおにぎりだが、食べてもらおう。栄養はたっぷりのはず。
娘が起きたとたん、私の目をみやる。ママ、目、どうなった? ん、かゆい。上瞼も腫れてきた。だから言ったじゃない!掻いちゃダメって! 掻いてないってば。でも、痒いよ。どうするの? ん、今日、病院行く。
そう、昨日から右目がおかしかった。蚊に刺されたのかな、妙なところを蚊が刺すものだな、と思っていた。掻かないように気をつけていたものの、徐々に徐々に膨らんでくる。昨日の夜は痒くて痒くて、見かねた娘が濡れたハンカチを持ってきてくれたのだった。今朝、鏡を見たら、上瞼にまで赤みが広がっていた。なんだかここのところ、顔の右側が膿んだり腫れたり忙しい。

ゴミを出し、振り返るとバスが来ていた。娘と手をつないで通りを走って渡る。バスの飛び乗って私たちは駅へ向かう。娘は今日明日、じじばばの家で過ごす。
ねぇ、ママ、ちゃんと病院行かなくちゃだめだよ。分かってるって。娘はじっと私の目の縁を見つめ、繰り返し言う。私も、こんな顔であちこち歩きたくない。
ねぇ、金魚、もうだめかもしれないね。うん、そうかもしれない。長生きしたよね。そうだよね。それでも、死んじゃうのは哀しい。そうだね、哀しい。どこに埋めてあげるの? そうだなぁ、でも、まだ生きてるから、もしかしたら生き延びるかもしれないし。そうだよね。私が帰ってくるまで生きててくれるかなぁ。うん、そうお祈りしよう。
二人バスを降りる頃には、雨の粒が大きくなってきていた。このまま今日降るのだろうか。急いでいて、傘を持って出るのを忘れてしまった。
娘は雨の中、いっこうに構わずてこてこ歩く。しかし、階段になると、私の手に縋ってくる。骨折中、何度も滑って転んだ階段だ。怖くなるのは当たり前。私は彼女の手を握り返しながらゆっくり降りる。
じゃぁ日曜日ね!うん、日曜日にまたね!
手を振り合って私たちは別れる。しばしの別れ。その間に私は、考えることを考え、決めることを決めなければならない。あぁ。

雨がまた一段と強くなってきた。
いっそのこと、このまま、雨に打たれていようか。一瞬そんな考えが頭をよぎる。いやいや、私は頭を振って、その誘惑をかき消す。
やれることを、ひとつずつやっていこう。できることを、ひとつずつ積み重ねていこう。それしかできないのだから。ひとっとびに何かに至ることなんて、できることじゃないのだから。地道にひとつひとつ…。
私は自分にそう言い聞かせる。ちょっと下を向くと、憂鬱の波に飲まれそうだから、できるだけ上を向いて上を向いて私は歩く。
雨粒の飛沫が、目に、染みる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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