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2009年10月14日(水)

おのずと目が覚める。午前四時半。まだ外は夜闇の中。すっかり明かりの消えた街はしんしんと眠っている。街灯に照らし出される街路樹の下葉が、ほんのり橙色に染まっている。私は髪を梳かしながら、そんな街の様子を見るでもなく眺める。東の光が伸びてきたとき、一番最初に明るむのがあの白い向こうの丘の一番上に建っている建物。そしてその光の筋は徐々に徐々に辺りに広がってゆくのだ。
薔薇は切り詰めることができた。今薔薇は、短く短くなって、まるで幼い子供のようだ。早いものはもう新芽をむずむずさせている。残ったのはアメリカン・ブルー。私は玄関に回り、座り込む。昨日思い切って、何本かの枝を切り落としてはみた。それでもまだ足りないらしい。あのこんもりした茂みは何処へいってしまったのだろう。もう再び見ることは叶わないんだろうか。いや、そんなことはない。再生する、きっと。だから、信じて待とう。あと少し、枝を切り詰めて。そして私は鋏を取り出し、真ん中の方から弱った枝を選んで切り落とす。右手に鋏、左手に切った枝葉。あっという間に左手はいっぱいになってしまう。もうこの辺でやめておこう。そして気づいた。以前挿しておいたものが、新芽を出している。こっちも、そっちも。あぁ、生きているんだ、呼吸しているんだ、そう思ったら、胸がいっぱいになった。弱って来た親株の隣で、新芽が三つ、四つ。まるで親株を守るかのように。そうだそうだ、芽を出せ、葉を広げろ。そして、親を守りつつ育ってゆけ。

小麦粉と全粒粉と砂糖、塩、ドライイースト、スキムミルク、それからショートニング。分量通りとはいかない、計量カップでだいたいの目安をつけてボールに入れる。そこに最後水を足して、あとは機械任せのパン作り。
昔は、そう、実家にいた幼い頃は、母が捏ねてくれたパン生地で、いろいろなパンを作った。シナモンロールパン、レーズンパン、梅ジャムパン。思い出すときりがない。実家には大きな大きな、食卓よりも大きな作業台があって、そこでいつもパンを捏ねた。ステンレスのひんやりした感覚が、冬場などは指に這い上がってきて、でもそれ何故かいつも、気持ちよかった。無駄口を叩かない母が黙々と作る横で、私は自由にパンを作った。自分で責任もって食べるのが条件で、好きなように作った。鋏で切りこみを入れたり、うねうねと巻いてみたり。とても楽しかったことを覚えている。
今私のところには作業台もなければ、捏ねているだけの手間暇をかける時間がない。だから、機械任せになってしまう。けれど。
今日はどうしても、パンを作りたかった。数日前からちょこっとずつ材料を集め、そして今日になった。何故だろう。突然パンだなんて。そう思ったが、どうしてもどうしても、作りたかった。
発酵する匂い、焼けてくる匂い、それぞれの匂いがそれぞれに部屋を満たす。私はその匂いに包まれながらぼそぼそと仕事をする。
そこへ娘が帰ってくる。突然私の腰に抱きつきじっとしている。どうした、何かあった? 聞いても答えない。でも何かあったのは明らかだ。私もじっと待つ。ようやく私の腰から腕を離し、ランドセルを片づけにゆく娘。改めて彼女の顔を覗き込めば、目の周りがほんのり赤い。これは泣いたな、と気が付いた。だから私は待つ。彼女が話してくれるまで待つ。
彼女が、作業をしている私の隣に椅子を持ってきて座り、話し出す。べつにたいしたことじゃないんだけどね、でもね、今日学校で…。うんうん。でね。うんうん。
そして結局彼女は、とばっちりをくらって、こめかみに段ボールの角をぶつけられて泣いて帰って来た、という次第だった。災難だったねぇ、もう痛くない? ま、もういいけど。別にいいんだけど。別にいいよね。うん。そう? うん、もういいや。そっか。
そして彼女は、パンの匂いに気づく。パン、焼いてるの? うん。失敗しないといいけど。はっはっは。ちゃんと焼けるといいね、ママ。そうだね、ちゃんと焼けるといいね。
そうしている間にも、部屋は、パンの焼ける匂いで満たされてゆく。それはやわらかい匂い。幸せの匂い。

娘と塾の宿題をしていて、だんだん二人とも、部屋にいることに疲れてくる。パンが焼き上がるまでにはまだ一時間半はかかる。
「お茶飲みに行こう!」。私は思いついて立ち上がる。娘に、残りの宿題をかばんに入れさせ、私は本を一冊かばんに入れ、玄関を出る。もう日が落ちて辺りは暗い。自転車のライトが私たちの道を照らす。くねくねと曲がる裏道を通って、それから公園の横を通って、大通りを渡り、高架下をくぐって埋立地へ。店に入ると、客は一組しかおらず。私たちは案内された席に座る。
向かい合った席、彼女は宿題をやり、私は本を読む。彼女は冷たい飲み物、私は温かい飲み物を口に運ぶ。そして時々、私たちはおしゃべりをする。
気づけば外はすっかり夜。宿題が終わったところで、娘がいきなり云う。おなかすいたぁ! じゃぁ家に帰るか。帰ろうか。ね。
私たちはさっき来た道を走る。銀杏並木の下のぎんなんを、誰かがきれいに掃除したのだろう。一粒も落ちていない。でも、匂いはかすかに残っている。次に現れるのは金木犀の匂い。次に現れたのは。家々から漏れてくる夕飯の匂い。
そして。玄関を開ければ、部屋中パンの焼けた匂い。私たちはパンを覗き込む。これなら大丈夫? まぁ大丈夫ってことにしておこう。そして私たちは笑い合う。
夕ご飯は、家を出る前に作っておいた炊き込みご飯にオクラとベーコンの炒め物、唐揚げ、マッシュポテト、トマトのサラダ、野菜スープ。野菜スープとトマトのサラダ以外は、娘からのリクエスト。

いつもより少し早く出る。今日は二人展の打ち合わせだ。娘に断って出ようとするところへ、ココアを抱きかかえた娘が追いかけてくる。ココアも見送りがしたいって。そうなの? でもそこから出ちゃだめだよ。大丈夫だよー。だめー。
じゃぁね、それじゃぁね、手を振り合って別れる。私は階段を駆け下り、やってくるバスに飛び乗る。何となくおなかが痛いのは気のせいだろうか。
明るくなってゆく空は青く青く澄んでいる。日に日に高くなる空を見上げながら、秋から冬に変わってゆくのだろう様を思う。この秋が過ぎてゆけばやがて冬。そう、じきに私の一番好きな季節がやってくる。
さぁ今日も、私の一日が始まってゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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