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2005年04月06日(水)

 昼過ぎ、仕事から戻り、片づけを始める。娘が毎日必ず使う塗り絵やお絵かき帖の棚を、もっと彼女が使いやすい場所に設置するため、あれこれ考える。全開にした窓からは、爽やかな風がぐんぐん部屋に流れ込んで来る。それがあまりに気持ちいいので、私は時折、手を止めては目をつぶり、風の感触を深く吸い込む。
 一通り片付け終えて、私はベランダに出る。手すりに寄りかかり、深く深く深呼吸すると、ゆっくりと振り返る。
 アネモネ。風に大きく揺れている。白い花、藍の花、白から藍へと変化する花。一重の花びら、八重の花びら、みんなそれぞれに、揺れる揺れる。私が見つめている間に、ひとつの花の花びらがひらりと飛んだ。あっと思ったその瞬間、花びらがひらりと宙に舞った。思わず手を伸ばす。けれど花びらはひらりと、ベランダから外へ飛んでゆく。白い花びら。
 私は途方に暮れ、再びアネモネのプランターに視線を戻す。すると今度は、紫に近い藍色の花びらがひらり、風に舞う。あぁこの花びらも飛んでゆくのかと、私は今度は黙って見送る。
 そうして見つめている間に、四つの花が、花びらを幾枚か手放してゆく。風はまだ止まない。花は、葉々は、まだ揺れている。
 頬に伝う何かの温度を感じて、私はふと我に帰る。知らないうちに涙が零れていた。そのことに気づいたら、ぼろぼろと涙が溢れ出した。まるで堰を切ったように。不思議とそれを止めようとは思えなくて、私は涙がぼろぼろ流れ落ちるに任せた。
 アネモネの花びら。宙に舞い、空に舞い、今頃何処にいるだろう。こんなにもあっけなく、花は花びらを手放すものなのか。ひとかけらほどの疑いさえ持たず、花は花びらを手放した。その様があまりに自然で、だから私は、たまらなかったんだ。
 誰かの命が散ってゆく。その瞬間に何度か立ち会ったことが私にもある。何度止めようと、止めようとして手を伸ばしたか。けれど、止めようはなかった。宙に舞った命は、そのまま地に堕ち、儚くも粉々に散った。
 あの瞬間に感じる空白は、他の何をもってしてもたとえようはない。まさに空白。空洞。空っぽなのだ。そしてそれは一拍の休止ではなく、永遠の終止なのだ。二度と元に戻ることはない。蘇ることも、ない。
 アネモネは今も私の目の前で揺れ続ける。風にゆらりゆぅらりと、時折強い風が吹くと、ぐわりと花茎がしなる。でも決して、折れることはなく。風に揺られ続ける。
 アネモネ。君は、どうしてそんなに真っ直ぐに、花びらを手放すことができるのか。私にそれを教えて欲しい。そのことを小さく声に出したら、またひとつ、涙が零れた。
 ふと、背中があたたかい、と、私は気づく。立ち上がって空を振り返る。そこにはもう西に傾き始めた太陽が在り、じっとこちらを見つめているかのように。
 そうだ、顔を洗おう。私は部屋に戻り、水道をいっぱいに開ける。音を立てて流れ落ちる水の束に手を差し入れ、掌のくぼみに水を汲む。私は思いきりそれを、顔に叩きつける。何度も何度も。何度も。

 時々、どうしようもなく胸が苦しくなる。こんなふうに、もう二度と、この世界で会うことのできない者たちの命を思い出して、私の胸は苦しくなる。ぎゅうぎゅうと音を立てて軋み、まるで雑巾が捻られるかのように呼吸が絞られてしまう。もう充分に、彼らを見送ったつもりなのに。もう充分に彼らの声を聴いたつもりなのに。
 私の手から離れた彼らの手が、私の指から離れた彼らの緒が、何を思っていたのか、唐突に、誰かに教えて欲しくなる。どうして、と。
 でも。その答えなど、何処にもないし、そもそも答えられる誰かなど、存在しないことは、私ももう充分知っている。だから私は、ここに残った者のひとりとして、毎日をこつこつと営んでゆこうと思うのだ。それが私にできる、唯一のことだから。

 私はもうじき三十も半ばを迎える。じきに、もっと多くの死に出会うようになるだろう。そういう年齢だ。でもいつも思う。病気だったり寿命だったり、そういう死ならばまだ、私は受け容れやすい。しばらくの間どんなに切ない思いを味わおうと、時とともに受け容れてゆくことができる。でもそうじゃない、突然の死を受け容れることは、いつだってたまらない。それでも生きていれば多分、これからだって、幾つものそういった死に私は出会ってゆくのだろう。その時私は、受け容れることなんてできないと拒絶するのではなく、どんなに苦汁を呑むことになろうと、どんなに時間がかかろうと、いつかきっと受け容れることができると自分を信じて、それらの死と向き合うしか、ない。恐らくは。
 窓の外が少しずつ橙色じみてきて、私は再びベランダに出る。アネモネの花びらが閉じ始めている、そんな時間。娘を迎えにゆくまでにはもう少し時間がある。自分の為に、熱いお茶をいれよう。今はただ、自分の為に。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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