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2010年01月15日(金)

夢に襲われることもなく、朝を迎える。目を覚ませばミルクのがらがららという回し車の音。私は近づいて彼女に挨拶をする。彼女は途端に籠の入り口にまっしぐら。籠の入り口のところにがっしと齧り付き、がりがり、がりがりとやっている。私はしばらく彼女を見つめ、指でちょんちょんと籠の扉を叩き、もう少し後でね、と声をかける。
お湯を沸かし、紅茶を入れる。今朝は、手作りのアプリコットジャムをその紅茶の中に入れてみることにする。お砂糖を一切使っていないジャムだから、そう心配することもないだろう。匙ひとつ分入れてみる。途端に変化する紅茶の色。濃い茜色からまろやかな茜色へ。
カップを左手に持ちながら、窓を開ける。濃い闇がまだ横たわる時分。通りには行きかう人も車もなく、しんと静まり返っている。その通りを街灯が煌々と照らし出している。吐く息が白くなる。今朝点いている窓の明かりは五つ。白い白いその光は、闇の中の目印になる。
部屋に戻れば、テーブルの真ん中にホワイトクリスマス一輪。昨日より綻んできたとはいえ、まだまだ閉じている。一番外側の花弁だけが、ぺろり、と、翻っている。暖房を殆どつけないこの部屋では、ちゃんと咲いてくれるのはまだまだ先になるのかもしれない。

待ち合わせした時間よりずっと早く友人がやって来る。どうしたのと尋ねると、こちらに用事のある友達と一緒に早く出てきてしまったと笑う。私は頷く。私たちにとって、電車に乗るのは一苦労なのだ。私自身、電車の中で何度倒れ救急車に運ばれたことがあるか知れない。誰にも助けてもらうことができず、倒れたまま終点まで辿り着き、そこで職員に発見され救急車を呼ばれる。思い返すと少し、それは寂しい。
娘二人との生活が、軌道に乗り始めた彼女は、子供たちの話をたくさんしてくれる。それまで閉じていた彼女の殻のどこかに、ふっと風穴が開いた、そんな感じがする。その窓は多分ふんわり丸くて、外の世界をちゃんと覗ける高さにあるのだろう。彼女の世界は、娘たちとの関係の変化によって、がらりと姿を変えた。
話していて、つくづく思う。私たちには、基盤、と呼べるようなものが、ない、と。子供時代があまりに凍りつきすぎていて、また、かけ離れすぎていて、重なり合わないのだ。自分がされてきたことと、自分がすることとが違いすぎて、だから実感というものがなかなか持てなかったりする。
たとえば娘をいとしくて抱きしめる。ふと思う。抱きしめられたことが殆ど無い自分。在るのは空洞の部屋か、背中を向けている親の姿のみ。だから戸惑う。自分がやっていること、自分がやろうとしていることは、果たしてこれでいいのだろうか、大丈夫なのだろうか、と。
戸惑い、そしてその果てに彼女が一時期自分の扉を子供たちに対して閉じてしまっていた気持ちが、痛いほど分かる。伝わってくる。私は彼女の話に耳を傾けながら、自分を省みる。
そして思い出す。十年ほど前、彼女と病院で再会した折のことを。それは私にとって苦い出会いだった。だからもう二度と彼女と会うことはあるまい、と思った。それがまた出会った。
もしあの時彼女が、ごめんね、という言葉を用いなかったら。私は彼女をこんなふうに受け容れることはできなかったろう。苦い記憶に何かがさらに上塗りされるだけの、そんな再会になっていたのだろう。でも彼女は言った。私が思ってもみなかった、私が知る彼女からは出るはずのなかった言葉を。

ACという言葉は、私たちにはとても親しい言葉だ。親しすぎて、手垢がついているかもしれないと思うほど。でも、授業を受けて知った。私たちには親しいが、そうではない人がこんなにも在るのだ、ということを。
正直最初驚いた。こんなにも、ACなどという言葉からはかけ離れて生きている人がいるということに、私は驚いた。多かれ少なかれ、みんな何処かでこの言葉に親しんでいるのではないかという、妙な先入観が私にはあったのだろう。
でもそれはあくまで、私の尺度であったことを、改めて知った。
そして思う。知らないで済むならば、知らないでいい言葉があるのだ、と。

話していて、笑ってしまう。妙なところで共通項があったものだ、と。彼女が話してくれる母親の手料理が、我が家のそれと重なり合うものがあって。
私の母は、決して料理が下手な人ではないと今なら思う。最近食べた煮物などは、とてもおいしかった。でも。あの頃、私や弟がまだ幼かった頃、もしかしたら彼女は追い詰められていたのかもしれない。その頃の彼女の手料理の記憶といえば、それは、温度はあたたかいけれどとても冷ややかで乱雑なそれだった。味があるのかないのか、よく覚えていない。そういう代物だった。
自分は料理人になるのだと言い出した。私はただ淡々とそれを食べて育ったが、弟はそれがいやで、料理人になるのだと言い出したほどだった。
いつの頃からか、食卓、というものがしんどい場所になっていった。食べるという行為がしんどいものに変わっていった。楽しいものなどでは、決して、なかった。
おいしいもおいしくないも、なかった。味が感じられない料理を、ただ黙々と胃に運ぶ。それが食事だった。それが食卓だった。
気づけば、我が家では、食卓というものがなくなっていった。テーブルはしんと静まり返ってそこに在った。
それは昼間はそうでもないのだが、夜見ると、たまらない代物だった。ここでわいわいがやがやみんなで食べることができたらどんなに楽しいだろう。そんなことを思いながら何度、テーブルを見つめたことがあったか。
過食嘔吐を繰り返すようになってからは、私はその食卓いっぱいに食べ物を並べた。とにかく並べ、広げ、テーブルをいっぱいにした。そして、片っ端から食べた。食べて食べて食べて、そして嘔吐した。
白い便器の中にはぼんやりと、母の顔が浮かんだ。私はその母の顔に向かって吐くのだった。それがまた、哀しかった。
今私と娘の暮らす部屋は狭くて、そのせいもあって、食事をする小さなテーブルは折りたたみ式のものだ。食事ができあがると開き、終われば閉じてテーブルをしまう。本当は、テーブルがでんと部屋の中央にあってくれたら、なんてことを思う。それは多分私の憧れだ。テーブルがあってみんなが集って。そんな場所があってくれたら嬉しいと思う。でもまだ、そんな部屋は、遠い。

それじゃ、ママそろそろ行くよ。あれ、早くない? 今日学校だもん。あ、そうか。ちょっと待って! 私が玄関で靴を履いていると、娘がミルクを連れてやってくる。あらあら、起こされちゃったのねミルク。私は笑いながら娘の掌に乗るミルクを撫でる。右手の人差し指と親指とで胴体を挟んで持ち上げると、きょとんとした顔をこちらに向けてくる。それがおかしくて、私は娘と一緒に笑う。
じゃぁね、うん、じゃぁね、頑張ってね! 娘の声に見送られ、私は玄関を出る。いっぱいの陽光が辺りに溢れている。私は階段を駆け下りてバス停へ。ちょうどやってきたバスに飛び乗る。
今日もまたインナーチャイルドの授業。どんな授業になるのだろう。どんな話が聴けるのだろう。少し、緊張もあれば、少しの楽しみもある。
バスはとんとんと進み、駅へ。私は駅の反対側まで歩く。そして差し掛かる、川の流れる場所。
川は東から伸びてくる陽光を必死に浴びて、きらきらと輝き流れる。こんな街中の川だというのに、水は朗々と流れゆき。
私の横を何人もの人が行き交う。私はその姿をしばし見送る。そしてまた、歩き出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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