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2009年11月17日(火)

また雨が降っている。どうしてこうも降ってほしくない時に雨は降るんだろう。ベランダを眺めながら思う。降っているものはもうどうしようもない。止んで欲しいと願ったからって雨がすうっと消えてなくなってくれるわけでもない。私は溜息をひとつつき、またひとつつき、暗く重たい空を見やる。
朝の仕事もうまくいかなくて、何となく苛々している。こういう時はハーブティを飲むのに限る。私はお湯を沸かし、熱いレモン&ジンジャーティを入れてみる。

カウンセリングの日。でも頭が重い。どんどん重くなる。重くて重くて首に頭を乗せているのが辛くなってくる。結局、カウンセリングは、机に突っ伏したまま受けた。世界がだぶって見えるんです。そんな話をちらほらとして部屋を出る。出ようと思ってふらついて、ドアを開けたら挟まって、なんだか散々なカウンセリングだった。カウンセラーの顔もだぶって見えた。鞄もだぶって見えた。焦点が合っているのか合っていないのか、いや、合っていないからだぶってみえるんだろうけれども、世界全体がだぶっているのではなく、視界の一部が、だぶって見えるのだ。だから昔の、全体がぐらぐらと揺れていた、あのだぶり方ではなくて。また違う、そんなだぶり方なのだ。だから疲れる。

家とは逆方向の電車に延々と乗る。そうして着いた書簡集。いつもとかわらず穏やかで静かな空間。私は温かいミルクティとチーズケーキを頼む。古本屋で買った文庫本を開き、つらつらと読み始める。最初活字が目に入ってこない。心に届かない。だから飛ばし飛ばし読んでみる。徐々に徐々に文字に慣れてきて、半分ほど過ぎた辺りから気持ちもついてくるようになる。思い込み、思いつめる父親が、小説の大半を駆け抜けてゆく。彼がようやく気づき号泣する場面では、何となく心が引きずられた。このシリーズの主人公が最初、私はあまり好きになれなかった。読む本がなくて手にしたといってもいいシリーズだった。でも、何だろう、主人公の周囲の人間がとてもとても人間臭くて、それが私は好きになった。結局これで三冊目。続きはあるんだろうか。
とある人と話をする。子供の話。子供に、私には自尊心がないのよと言われた時には、愕然とした、と彼女が言った。自分を大切にすることが分からないという子供に愕然としたのだと彼女は語った。でも私にはそれが痛いほど分かった。私にも自尊心なんてものはなかった。そんなもの、想像もできなかった。
優等生、何でもできる子、しっかりした子、そういうレッテルに、いつのまにか自分も必死についていこうとする。自分に必死になるのではなく、そういうレッテルを守ることに必死になっていく。そして気づいたら、自分が空っぽで、愕然とする。自分が無いわけはないのだけれども、自分が何か全く感じられなくて、そのことに愕然とするのだ。
周囲の期待に沿わなければと必死になっていた自分だった。何処までもいい子でいなければならないと信じてやまなかった自分だった。でも。何処までもいい子でいることなんて、できやしないということにぶつかって。それまで抑え込んでいた自分の内奥の何かが破裂する音に気づいて。呆然とするのだ。
どうやって折り合いをつけたの、折り合いをつけるまでにどのくらいの時間がかかったの、と彼女が尋ねてくる。私は思い返してみる。結構長い時間がかかったように思う。家を飛び出し、親の呪縛からも逃れたはずなのに、そこでもなお親や周囲の期待に応えようとする自分を見出し、一体じゃぁ自分はどうすればいいのだと足掻く。その繰り返しだったように思う。親と絶縁した時期もあった。足掻いても足掻いても泥に足を取られる、そんなことの繰り返しだった。
結局、なんといったらいいのだろう、適度の諦めと、それから、そうやって走ってきた自分を受け容れることができて初めて、自尊心って何だろうと考えることができたように思う。受け容れると言葉で言えば一言だが、その作業は実に長くかかった。
まだまだ私自身、自尊心というものを掴んではいない。手に入れてはいない。自分を大切にするという術がまだまだ分からない。分からないけれども、そういう自分もひっくるめて、自分自身なのだなとは思える。
多分、ここまでくる道筋に、私には多くの友がいてくれたことが大きいんだと思う。私がひしゃげるたび、何やってんの、そんなこととおの昔に分かってたよ、気づいてたよ、と笑って私に手を差し伸べてくれる友がいた。曲がり角ごとに、必ずといっていいほど誰かがいた。そのおかげで、今の私は在る。
人はひとりで生まれ、ひとりで死んでいくけれど、生きている間どれほど絡み合っているか。まるで太い糸のように。布のように。織り込まれ、編み込まれ、お互いに支えあいながら生きている。

夕方、友人と会う。東京が苦手な私を気遣って、彼女があらかじめ店を探しておいてくれる。彼女はビール、私はカフェオレを注文し、向き合って座る。食欲がないという彼女が少し気に懸かる。普段きちんと食べる人だから余計に気に懸かる。
私はお酒を飲んでいる彼女が結構好きだ。お酒がとても好きなのだろう、顔がいつでも柔らかくなる。でも、その時の彼女は、多分私を気遣ってなんだろう、いつもに比べて殆ど飲まず、私の帰りの時間を気にしてくれている。そして気づいた、私は多分とても疲れた顔をしていたんだろう、と。とてもとても申し訳なくなる。
彼女と別れて電車に乗ると、私はすっかり寝入ってしまった。大勢人が降りる気配で目を覚まし、慌てて電車を降りる。まだ目が覚めなくて、階段で本を落としてしまう。改札を出、しばらく歩いて、ようやく目が覚めた。彼女にお礼のメールを送る。

ママー! 上着を脱いで、半袖の娘が駆けてくる。おかえり、新しいクラスどうだった? ん、まぁまぁ。おにぎりは? はい、明太子とわかめごはんのおにぎり。あ、ママ、冷凍庫のおにぎり、少なくなってきたよ。分かった、明日作るね。今度こういう混ぜご飯のおにぎりがいいなぁ。分かった分かった。じゃぁバス停まで競争! 勝ったらどうなるの? 勝った方がアイスおごり! よーし! 私たちはそうして人ごみを駆け抜けてゆく。
通りに傘の花が咲く。みな襟を立てて、背中を軽く丸めて足早に歩いてゆく。こんな雨の中では立ち話している人もいない。私はバスに乗り、駅へ。
そういえば明日は娘の学校の音楽会だ。ママ、絶対見に来てよ。うんうん、分かってる。劇もやるからね。うんうん。
そんな娘もいずれ、反抗期に入るんだろう。そうなったらママとも呼んでくれなくなるかもしれない。母が笑いながら言っていた、自分がしたこと全部子供に仕返しされるわよ、よく覚えておきなさいね、と。そうだとしたら、彼女の反抗期は相当なものになるに違いない。ママ、ママ、と呼んでくっついてきてくれるのも今のうちなんだろうな、と、私は心の中、思ったりする。今のうち、今のうち。そう、今のうち。
電車がどんどん人を吐き出してゆく。私もその人に揉まれながら、階段をおりてゆく。一日はもう、始まっている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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