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2007年07月27日(金)

 カブトムシが幼虫から成虫へ羽ばたいたのは、或る朝の突然の出来事だった。以来、娘は、特訓と称して、丸めた紙をゴムにひっかけ、それをカブトムシの角にくっつけて、毎夜歩かせるということを繰り返している。短い時間だが、カブトムシがカゴから外に出てくる時間だ。その間私は、カブトムシが突然飛び立ったときのために、目を皿のようにしてカブトムシの動向を見守っている。多分、そんなふうにしたって、突然飛び立つカブトムシを捕まえることはできないだろうなと思ってはいても。
 挿し木した紫陽花の根元から、新しい葉がくいっと土をもたげて顔を見せ始めた。まだまだ油断はできないとはいえ、それでも嬉しい。ほぼ同時期に、同じく挿し木したオレンジ色の薔薇の枝に、蕾がついた。もちろんこれはひょろ長く弱々しい。それでも、蕾をつけてくれた、ということがとても嬉しい。綻び始めたら今年はすぐに切ろうと思ってはいるが、毎朝毎夕、この蕾の膨らみ具合を確かめるのが、今の私の楽しみのひとつだ。

 去年の今頃、私と娘は、明らかになった苛めの問題と向き合っていた。あの頃、私たちは必死だった。私はあちこちに働きかけ、娘は必死に自分と闘っていた。
 結論から言えば、大人は何もできなかった。娘を後押ししてくれたのは、娘が通う学童のお友達だった。上級生のお友達、同じ学年のお友達、同じ保育園からのお友達、それぞれがそれぞれに、娘を励ましてくれた。何かあったら飛んでいくから負けるな、と言ってくれたお友達もいたそうだ。学校は大変でも、その後学童が待っている。そのことは、娘を大きく支えてくれた。指導員さんたちの存在も大きかった。彼女に為されるいじめが執拗なタイプの代物だったことをちゃんと理解し、娘のフォローに回ってくれた。そうして彼女は、何の対策もとってくれない学校の中で、自分でしっかり自分の居場所を作っていった。
 今彼女は、学校も学童も楽しいと言う。去年のことなど遠い昔のような顔をしてさらっと言う。でも、そう言えるようになるまでの道程を振り返ると、私は彼女に拍手を送りたくなる。これが我が娘かと思うと、頼もしく、同時にたまらずに涙がこぼれてくる。
 娘よ、強いだけの人間などいない。同時に弱いだけの人間もいない。私が言えるのは、ただ、しなやかに生き抜いていけ、と、その一言に尽きる。もちろん、いつでも私はここにいるから。そう、いついかなるときも。

「人間性が問題である…すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている…最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だった…(中略)
 …最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。(中略)
 まず、すべては、ひとりひとりの人間にかかっているということです。おそらく、同志は少ないでしょう。しかしそれは、重要なことではないのです。そしてつぎに、すべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです。したがって、そもそも問題なのは、最近の否定的なプロパガンダ、「生きる意味がない」と唱えるプロパガンダに反対して、別のプロパガンダを開始することだけです。そのプロパガンダはそのつどそのつど、第一に個人的なものでなければなりません。第二に活動的(アクティブ)でなければなりません。そうであってこそ、このプロパガンダは、現実的(ポジティブ)であることができるのです。(中略)
 すべての生は、死に面しています。(中略)
 しあわせは目標ではなく、結果にすぎない…(中略)…「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。」
(フランクル記)

 もうすぐ日も暮れる。蒸し暑い一日も、残りあと僅か。もうすぐ学童から娘も帰ってくるだろう。今日はどんな話が聞けるだろう。どんな話ができるだろう。
 そして。
 娘のいない残り僅かの時間、私は何ができるだろう。ひとつ、またひとつ、そういったものを増やしていければいい。
 たいていの物事は、どうやって妥協点を見出すか、ということ。でも、それはネガティブな言い方。この言い方を別の言い方にしてみたら、たとえば、一体どこに自分の行動の着地点を見出すのか、ということになる。私の着地点。ひとつひとつの着地点。それらの積み重なりが、私を作っている。

 今、西の地平線近くから、一本の橙色の光がまっすぐに、伸びる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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