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2005年12月19日(月)

 娘の予定が満杯だった週末が終わり、また新しい週へ。週が新しくなった分、寒さも増したのか、朝窓を開けるとそのあまりの冷え込み具合に思わず私は首を竦める。天気予報は今日も晴れ。けれど、あちらこちらの地方で雪が今も舞い落ちているという。今年は暖冬だと、夏の頃、誰かが言っていなかったか。私はそんなことを思い出しながら、日本地図をぼんやり眺める。最近こんなふうに、天気が歪むたびどきんとする。日本の四季は、いつかなくなってしまうのだろうか、と。娘が大きくなり、娘がその腕に我が子を抱く頃、この国の季節は一体どんなふうになっているのだろう。
 上着をいつもより一枚多く重ね着し、私はベランダの外、プランターに水をやる。ずいぶん長いこと音沙汰なく、もしかしたら球根がだめになっているのではないかと心配していた丸いプランターから、ようやく水仙の芽がぽつりぽつり現れ始める。ずいぶんごゆっくりでしたね、と声をかける。とりあえず踏ん張って、育ってくださいね、そう言いながら私は、彼らにそっと水をやる。アネモネもラナンキュラスももうずいぶん大きくなり、冬だというのにふさふさと緑を揺らしている。こんな乾ききった、そして冷たい空気の中、君たちはずいぶん元気だね、私はしゃがみこんで葉をそっと撫でる。今日の冷え込み具合に比例して、葉もいつもよりずっと冷たく感じられる。それでも、この薄い薄い葉の間で、きっと緑の命が脈打っているのだなと思うと、何だか指先からどきんどきんとその脈打つ音が伝わってくるような錯覚を覚えてしまう。私はしばし、太陽の光を背中に浴びながら、そうしてプランターとおしゃべりをする。
 こんな時間は久しぶりだ。本当に久しぶりだ。このところあまりに慌しくて、周囲がすっかり見えなくなっていた。さすがに、夜、丸い月に気づくくらいはあったけれども、枯葉が廊下を滑る音も、細く開けた窓を行き来する音にも、耳を澄ますことをすっかり忘れて過ごしていた。今背中があったかい。それは、高く高く空の天辺を歩く太陽が、その光をさんさんと降り注いでくれているから。この光は多分、私にもあなたにも君にも、誰の背中にも誰の手のひらにも平等に、降り注ぐ。
 どうやっても交じり合えず、すれ違うばかりの両親と、それでも電話で話をする。すれ違いながら、電話の向こうとこちら、それぞれに地団太を踏みながら、それでも、伝え合おうとする努力だけは、せめて手離さずにいられたらと、改めて思う。それを手離してしまったら私はもうきっと。…いや、そんなこと、今は考えるまい。私は洗物の手を止めて、ぼんやりと娘の顔を思い出す。そう、彼女がいる。彼女にとってじじばばは、大事な大事な存在だ。私の努力次第でそれを守っていけるなら、それにこしたことはない。私は再び洗物の続きに視線を戻す。

 「ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけでなく、他の人やその愛にも言えるのだ。
 このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」
 「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転向が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。誰もその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身が苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 (中略)わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。」
(「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル著)

 最近、心がぐらりと揺らぐたび、この節々を思い出す。そして、ぐらりと揺らぐ自分に問う、こんなんで揺らいでいいのか、揺らいでいていいのか、私はまだ踏ん張れるんじゃないのか、まだまだ踏ん張って這いずって、あの地平線の向こうまで道を拓いてゆくんじゃなかったのか、と、私は私に問いかける。すると、どんなに草臥れて疲れ果てていても、何処からか力が沸いて来る。そして、私はまた、一歩、半歩、足を進める。
 誰かとの縁で苦しくなったり眩暈を覚える時も、私は同じように己に問う。この縁をどうしよう、手離していいものか、手離さずにおくものか、と。もうすでにこの縁の糸の向こう側は、断ち切られてしまっているかもしれない。もしかしたらもうこの縁の糸の向こう側には、もう誰もいなくなってしまっているかもしれない。そのとき、私はどうするのか、どうしたいのか、と。問うて問うて、そして、やっぱりまたこの節を思い出す。そして、自分の心の形を指先でそっとなぞってみる。
 誰も私の代わりになってくれるわけじゃない。確かに、誰かに代わって欲しいような出来事もたくさん在りはした。けれど、もし、あんな出来事たちに見舞われる誰かを間近で見ているくらいなら、私は今のこの自分があれらの出来事をごっそり引き受けることを進んで選ぶだろうと思う。それがいいか悪いかとか、そういうものではなくて、私は多分、それらを引き受けても生きていけると思えるから。そして、それはこれからも多分、変わらない。
 時々確かに、衝動に襲われる。自分を抹殺したい衝動にかられる。それはどうしようもなく私を襲ってくるし、その波は容赦なく私の足元から私の存在を突き崩そうとする。踏ん張った果てに自分の足元が崩れ落ち、途方に暮れることもあった。何度、そんな味を奥歯で噛み締める羽目に陥ったことか。それでも、私は多分生きているのだろうし、これからも生き続けるんだろう。それが私だから。ただそれだけで。
 それは多分、耐える、耐え忍ぶ、といった、受動的で強いられたものではなくてむしろ、自ら進んでその状況に身を任すというような、あくまで能動的な営みなのだ。

 もうじきまた、あの季節がやってくる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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