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2009年10月19日(月)

窓を開ける。途端に肌が粟立つ。日はまだ昇っていない、午前四時半。昨日は早々に横になった。娘が、フィギュアスケートを観ながら声を大にして応援していたのをおぼろげに覚えている。私はその番組の内容を殆ど覚えていない。多分途中からすでにこっくりこっくりしていたのだろう。スケートは二人でいつも応援しながら見る、数少ない番組だったのに。もったいないことをした。そんな気持ちが朝から湧いてくる。滑り込んできた冷気に寝返りを打った娘の顔を、私は覗き込んで一言謝る。
もうそういう年齢なのかもしれない。仕事で遠方に出掛けると、途端に体が疲れを訴える。以前はそういうことがなかった。だから気づかなかっただけかもしれないが、私の身体は相当に疲れているのだなと、昨日気づいた。腰が痛いとか頭が痛いとか肩が痛いとか、そういうのではない、ただだるい、全身がだるい、そういう疲れだ。普段横になりたいと思うことなどそうそうないのに、頼むから横にならせてくれ、と、昨日は思った。だから洗い物も何も全部やりっぱなし。私は蛇口から水を勢いよく出し、残っていたものを洗い出す。
濡れた手を拭き、ベランダに出て深呼吸をする。冷気が一気に身体に吸い込まれる。とても気持ちがいい。私は髪を梳かしながら、ゆっくり呼吸を繰り返す。
一日放っておいただけなのに、薔薇はあちこちから新芽を出させている。力強いその芽が、薄暗い闇の中、それでも凛々と天に向かっている。先っちょをちょんちょんと、指の腹でつつく。柔らかい先端は、私の指の腹をくすぐる。その間にも徐々に徐々に闇は薄れ、夜明けの気配が近づいてくる。まるで足音を立てて近づいてくるかのよう。その速度に、私はしばし見惚れる。
まるっきり放っておいた丸いプランターから、新たにムスカリの芽が出ている。それは私の意識からまるっきり外れたところにあったプランターで。ムスカリの芽はそれでも、ぴんとした太い芽を出している。私は感嘆の溜息をひとつ、つく。そしてその丸いプランターを、改めて、手前の位置に運ぶ。これで水遣りを忘れることもないだろう。それにしても。去年私がどの鉢にどの球根を植えたのか、思い出せない。そのことが、私を不安にさせる。何も思い出せないに等しい。たった一年という時間なのに。それでも私は記憶を巻き戻すことができないとは。去年の冬、そんなに自分は不安定だったのか、それとも単に思い出せないだけなのか、それが分からないから私は不安になる。

思ったより天井の低いその建物。文化勲章を受章したというガラス芸術家の作品を順繰り見て回る。ガラスの透明さよりも、ガラスの持つくすみの方が先に現われる作品たちを前に、私は少し、考え込む。確かに美しい。技術はすばらしい。でも。なぜだろう、私の心には響いてこない。なぜだろう、なぜだろう。
そして気づいた。私はガラスの透明さ、その光の映し出し方にこそ惹かれるのだな、ということに。ガラス絵を思い出す。油で描かれるガラス絵より、水彩で描かれたガラス絵の方にこそ魅力を感じる自分。ガラスという素材が沈んでいるよりも生き生きとそれが前に出ているものの方に私は魅力を感じるたちなのか、と改めて思う。だから、大御所と呼ばれるこの方の作品群よりも、入り口に三つだけ飾られていた新人の、ガラスのコラージュの方に目が行ってしまったのだ。作品の横に小さく添えられた新人の経歴を読みながら、手帖の名前を控える。
併設していたミュージアムショップの隣で、陶器の展示が為されている。思わず引き寄せられ、私はそこに向かう。ちょうど作品を並べ終えたばかりの作家に声をかけ、作品を手にとってもいいかと訊ねる。ぜひにと言われ、手に取り、陶器から滲み出してくる感触を私はしばし楽しむ。手ごろな器を手に、あちこち眺めていると、作家が、ぜひ口に持っていってみてくださいとおっしゃってくれる。口元にそれを運ぶと、薄い陶器が実にやさしく唇に触れる。飲み口のその感触に私は惹かれ、ひとつ買い求める。青と緑を混ぜたようなその色合い。これからの季節、私の机で活躍してくれるだろう。

朝の一仕事をしていると、娘がおにぎりを頬張りながら、ココアを連れてくる。ちゅーしてあげてよ、とココアを私の顔に近づける。やだよぉと避けると、娘はなんでなんでぇと笑いながら私の肩にココアを乗せてくる。ひゃぁと言いつつ、ココアが落ちたらと思い動けないでいる私を指差して娘が笑う。その娘に、訊いてみる。
ねぇ、ママが髪の毛洗うのと、ばぁばが洗うのと、どっちがうまい? えー。ねぇどっち? うーんうーん、えへへ。なになに? えへへへへ。どっちよぉ。そりゃね、ばぁば! はっはっは、やっぱりねぇ。私は大笑いする。どうしてばぁばの方がうまいの? だってさぁ、ママはすんごい力が強いんだもん、ばぁばはね、弱いくらいやさしいんだよ。そりゃ、握力が違うからなぁ。えー、ママ、握力どのくらいあるの? 今は分からないけど、学生の頃は50は余裕であった。え、ママ、女なのに? うん、ピアノやってたからね、握力強かった。そうなんだぁ、女でもそんなに強くなるんだ、へぇ! なるよ。その代わり、男にからかわれるけどね。そりゃそうだね、ママより握力ない男だっているんでしょ。うん、そうだったね。だからからかわれる。でもね、それよりね。なになに? ママは、手首が太いことで悩んでたよ。なんで? だってさぁ、自分の彼氏より、手首が太かったら、悩まない? えー、太かったの? うん、太かった。なんでそのことに気がついたの? 彼氏の腕時計を借りようとしたら、はまらなかった。わはははは。

少し時間が余ったため、街の循環バスを使って、あちこち回ってみる。そういう季節なのだろう、観光客がとても多い。様々な詩でうたわれたこともある入り組んだ海岸線に沿って歩く人。松の足元に佇む人。カメラを構える人。思い思いに街を歩む。私はそんな人たちの顔を眺めながら、歩く。
耳を澄ませば、朝とはまた一味違う海鳥たちの声が何処からか響いてくる。丘に上がり、私は街を見下ろす。耳を閉じてみれば、一枚の絵のような風景が、そこには在る。私はカメラを構える代わりに、手帖にその風景を、言葉にして記す。

今日は病院だ。確かカウンセリングの日。そう思いながら少し早めに玄関を出る。アメリカン・ブルーを覗き込み、やはり全体を切り込むしか術はないのかもしれないと自分を納得させる。今日帰ってきたら、早々に刈り込んでやろう。今ならまだ、新芽が出るかもしれない。
バスに乗り、電車に乗り換える。そして一本の川を渡る。かつてこの川の近くに住んでいたことがあった。日照りが続けば川の水は減り、雨が続けばこれでもかというほど水量が増え轟々と流れる。海とは違うその水の有様を、私は毎日のように見に来たものだった。そして何故だろう、いつも切なくなった。ただ流れてゆく川の様に、切なさをいつも見ていた。そしていつかまた、川ではなく海の近くに住むのだと、心に決めた。
川を越えればもうすぐ駅だ。二つ目の駅で私は降りる。ここに最初降り立った時、歩道のないその街景に驚いたものだった。どこをどう歩けばいいのか、迷うくらいだった。今はもう慣れ、車の間をすいすいと歩く。具合の悪い時はそれができないから、大回りに車を避けて歩く。
朝のうちあった雲は空からいなくなり、空は今、白く発光している。その傍らには今見えずとも、太陽が必ずある。燃え盛る太陽があるからこそ、私はここで空を見上げる。
少し時間が空いたので娘に電話をかける。三度鳴らしたところで娘が出る。なぁに。気をつけて行って来るんだよ。うん、ママもね! 気をつけてね!
イヤフォンからは、シークレットガーデンの、Homeが流れている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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