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2005年04月11日(月)

 毎週の診察を終えて電車に乗る。雨は時間が経つ毎に冷たさを増してゆくようで、私は上着の衿をかきあわせる。走る電車の窓に雨粒が点線を描く。昼間の電車は何処か寂しい。乗り合わせた人たちはみな、ぼんやりと俯いている。
 駅を降り、川沿いを歩く。コンクリートに囲まれた川。立ち並ぶ桜は次々に花びらを手放してゆく。その花びらは、川面に、そしてコンクリの壁に地べたに、ぺたりと貼りつく。工事中で黄色く細長い浮きで遮られた川面の一角が、薄桃色でびっしりと埋まっている。まるで花びらの絨毯。私はしばらくそこを見下ろせる場所に立ち止まり、辺りをゆっくりと見回す。周囲には誰もいない。通り過ぎる人影のひとつさえない。私は傘をさし、ただじっとそこに佇む。
 やがて私の歩く道は、以前女の匂いに噎せかえっていた通りに繋がる。カーテンもドアもぴったりと締めきられた部屋たち。全てのドアの隙間に、請求書等の郵便物がぎゅうぎゅうと押し込まれている。誰も取りに来る者はいない。放置されるまま。雨が少し強くなる。傘に落ちる雨粒がぷつぷつと音を立てる。私は、誰の足音も誰の気配もない通りを、ひとり、とぼとぼと歩く。ふと見やると、「暴力を追い出して明るい町作りを」と書かれた立て看板がそこに立つ。雨に濡れ、黒い大きな文字が光るばかりの看板。私は少し途方に暮れる。ここから追い出された暴力は、今度は何処へ行くのだろう。
 仕事場で、コンビニエンスストアで買ったお握りを片手に作業を為す。繰り返し作業が多いおかげで、私の頭の中はしばし空っぽになる。回り終えたフィルムがかたかたと、私の頭のずっと芯の方で音を立てている。

 「こんにちは」
「…こんにちは」
「今週はどうだった?」
「先生、床が蠢くんです」
「床?」
「私が夜トイレに入るとき、娘が扉を開けておいてくれって言うからいつも家では扉を開けてるんですけど、うちの床の木目が、蠢くんです。木目の端っこだけが、ざわざわと」
「蠢くのね」
「はい。それと、今週はちょっと、過食嘔吐が止まらなくて」
「…」
「隙間を全部埋めたくなって仕方がないんです。埋めないとたまらないっていうか…」
「…」
「別におなかがすいてるわけじゃない。すいてないのに気がつくと食べている。それに気がつくと嫌悪感でいっぱいになる、吐かずにはいられなくなる。それで吐く。でも気がつくとまた食べてるんです。だから吐く。その繰り返し」
「…」
「未海がいるときは何とか制御がきくんです。吐いてるところなんて未海に見せたくない、そう思うと何とか制御できる。でも、それ以外の時はもう、全部の隙間を埋めたくなる。食べて吐いて食べて吐いて。多分、これ、食べて吐くっていう行為じゃなくてもいいんだと思う、隙間を埋めさえできれば。でも、他にそれに当てられる行為が見当たらないから、手当たり次第に食べては吐く、そうなってしまう」
「悪夢とかは?」
「悪夢…は、あまり見てない気がする。覚えてないです」
「そう…」
「先生、その過食嘔吐と、あと、頭痛が酷いんです。頭痛に関係ないかもしれないけど、たった一晩寝ただけで筋肉痛になってたりすることが結構あって、そうすると肩とか首ががちがちになってて、四六時中頭痛がする」
「寝てる最中も身体がよほど強張ってるのね」
「自分じゃぁ分かりません。でも、そうなのかもしれない。肩とか背中とか、別に運動したわけでもないのに鈍痛に襲われる。極度の運動をした後のあの独特な痛み。でも私、運動なんてしてない」
「そうね」
「あと先生、とっても困るのが、自分の耳です」
「…」
「電車とか乗ってて、たとえばガムをくちゃくちゃ噛んでる人なんかが隣に座ると、もうだめなんです。耐えられない。あのくちゃくちゃって音が耳にぐさぐさ突き刺さる。だから耳を塞ぐ。それでも駄目なら席を立つ。でも、席を立っても、一度耳に突き刺さり始めた音は消えてくれないんです。それどころかむしろ、どんどん音が大きくなって、耳を塞いでも目を閉じても、音が耳の中でがんがん鳴ってる。隣で舌打ちなんかされた日にはもう絶叫したくなる。たった一度の音でもそれが私の耳にがんっと入ってきて、消えてくれない。自分の絶叫でそれをかき消したくなる。でも、絶叫なんかしたら私が狂ってるって思われるだけだから必死にその衝動を抑える。でも、それがたまらなくしんどい」
「…」
「…」
「…」
「…先生、今、沈黙が一瞬あったでしょ? もうこれだけで駄目なんです。今のこの沈黙の一瞬に、私の耳は隣の診察室で喋ってるこの女の人の声に全部奪われてしまう…」
「獲られちゃったのね、一瞬のうちに」
「…そう、なんです、だから…えっと…」
「なぁに?」
「いや、あの、だから…、駄目なんです、こうなっちゃうから、だから、隙間全部埋めないといけないってことになっちゃう。でないと自分が失くなってしまう」
「ぎりぎりね」
「…え、は、ぎりぎり?」
「ぎりぎりのところで踏ん張ってるって感じね。リストカットは?」
「あぁ、えぇっと、それ、それ…」
「大丈夫? もうきつい?」
「…いえ、もう少し、何とか、それで、何でしたっけ…」
「リストカットは?」
「それ、したくなるんです。もうめちゃくちゃに切り裂きたくなる。でも、それをしたら終わりだとも思う」
「そうね、そうだと思うわ」
「今それをやったらまた同じことになっちゃう、そんなふうに思う。思うんだけど…思うんだけど…何でしたっけ」
「リストカットね」
「…よく分からなくなってきちゃいました、すみません」
「いいのよ、今はとにかく、まず、一週間生き延びること、それだけ思ってくれていればいいわ」
「…はい」
「一週間後、またここで会いましょう、ね?」
「はい」
 一週間。それはどんな時間だろう。いつだって一週間、とにかく一週間、それさえ何とか生き延びることができれば、次に続くことができる。一週間、そしてまた次の一週間、それを積み重ねていけば、一ヶ月、それをさらに積み重ねていけば一年、そして二年。一日一日の積み重ねがきっと、私の明日を繋ぐ。そう信じて私は、診察室を出る。まだ隣の診察室から声が響いて来る。私は耳を塞ぐ。そして早足でその場から逃げ出す。少しでも声のしない方へ。耳の中では、どんどん女性の声が大きくなる。それはやがて声ではなくただの音になり、その音が延々と、私の耳の中で木霊し続ける。それだけの、こと。

 娘を迎えに行く時間ぎりぎりまで仕事を続ける。雨は降り続いており、私はまた傘をさして歩き出す。太陽の一欠けらさえ見ることができなかった一日。一面雨そぼふる街は暗く、もう街灯が点っている。私は頭をできるだけ空っぽにして、ただ歩くことだけに気持ちを傾ける。ふと目の前を白っぽい小さい何かが斜めに横切る。はっとして見やると、それはすぐ隣に立つ桜の樹から舞い落ちた花びら。土曜日ここを通った折には、まさに見事に咲き誇っていた桜。私は立ち止まり樹を見上げる。街灯の明かりに照らし出された枝々には、もう殆ど桜の花は残っていず、みな無残に散り落ちてゆくのだった。日曜日の風が、そして今日の雨が、花びらを次々に奪い取る。奪い取られても奪い取られても、それでも樹は黙ってそこに立ち続ける。花びらを敢えて守ろうとするわけでもなく、奪われるままに手放し、そして沈黙している。もしこの樹が私だったなら、今頃絶え間なく叫び声を上げていたかもしれないのに。どうして植物たちはこんなにも、潔いのだろう。樹々も花々もみな、どうしてこんなにも。後ろから歩いてきた人の肩が、立ち尽くしている私の背中にぶつかる。はっとして、慌てて私は再び歩き出す。駅から続く大通り、ちょうど人通りの多くなる時間。私にぶつかって、そして追いぬいていったサラリーマンの背中はあっという間に人ごみに消えてゆく。私も少し足を速めて、娘の待つ保育園へと急ぐ。
 私の目の奥で、桜の花びらが舞う。その花びらの嵐の向こうには年輪を刻んだ樹が一本、すっくと立っている。ただじっと。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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