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2005年04月03日(日)

 目を覚まして一番に、私は窓を思いきり開けてみる。今朝は、部屋の外も部屋の中も、温度差が殆どない。私は両手を広げて、思いきり深呼吸をする。ここは大通りに面しているので感じることはできないけれども、数年前住んでいた公園の真裏の部屋では、こうやって深呼吸すると緑の匂いがしたものだった。晴れ上がった春の日には乾いた緑の匂い、梅雨の頃には湿った緑、季節毎、天気毎にそうして空気の匂いが変わるのだった。
 今日、遠い街に住む友人が、一年ぶりに子供を引き連れて遊びにやってくる。彼らの為にちゃんと場所を用意しておかなければ、と思い、私は、普段荷物置き場になっている本棚の部屋を慌てて片付け始める。
 片付けるとは言っても、この部屋は本の山。とりあえず思いつくまま本棚に本をつっこむ。そうやってあれこれ本棚の前で作業をしていたら、本と本の間からメモがぱらぱらと落ちて来た。ここにも、そこにも。昔の私が書いたメモだ。片道二時間強の通学、その間に私はひたすら本を読んでいた。試験直前であっても教科書や学校でのノートを開いたことは殆どなく、長い電車の中で開くのは、いつでも何かしらの本だった。そしてその合間合間に、思いついた言葉をありったけ、ノートをちぎった紙切れに書き記したのだった。落ちてきたメモを拾い上げ、私はさらさらと流し読む。読んでいると、自然、当時のことが蘇って来る。当時、私は毎日のように何処かしらの古本屋に立ち寄った。新刊を買い漁れるようなお金はなく、できるだけ数多く読みたいとなると、古本か文庫本を探し出すのが一番確かだった。それが就職し、自分の労働で得られた金で本を買うようになって、本にばかりお金を費やすことに遠慮がなくなったためか、私は給料のほとんどを、まさしく本に費やしてきた、そんな記憶がある。
 ちぎられた紙切れに記された文字の線はみな、思いついた言葉を忘れないようにと必死に記したのだろう、次へ次へと泳いでいる。かすれていたり、重なり合っていたり、小さな紙切れの中に何とか全部の言葉を収めようと、判読不可能なほどの小さな字がびっしり詰まっていたり。時代時代で字の形も、もちろん書き記す言葉も違っている。あぁこの頃私はこんなに尖がっていたのか、この頃はこんなにも沈んでいたのか、等々、それにしてもよくもまぁこんなにも記したものだと、私は半ば呆れながらその紙切れを拾い集める。そしてしばらく考え、その紙の束を全て、ゴミ箱に放りこむ。懐かしいけれど、多分もう、これからの私には必要はない。今の私は、この紙切れに記された時代をそれぞれに超えて来てしまった。今の私がもし同じように紙切れに何かを記したとしても、この昔の紙切れの中にあるような言葉は多分きっと、綴らない。だから、さよなら。
 そうしているうちに友人たちを迎えにゆく時間がやってくる。まだ片付け終わらない本の山を横目に、私は急いで家を出て保育園に娘を迎えにゆき、その足で友人が待つ駅へ向かう。

 友人らがやってきてからの三日間は、まさしくあっという間に過ぎてしまった。気がつけばもう別れの時間がやってきており、私たちはそれぞれにハグをし、手を振って別れる。電車が視界から消えるまで手を振った後、娘がぽつりと言う。寂しくなっちゃったね。
 夕飯を食べるのでも絵本を読みきかせるのでも、部屋ががらんと広く感じられる。それに静か過ぎる。この三日間の賑やかさが、まるで幻のように思える。ふと耳を澄ますと、耳の奥、思い出される。ぺたぺたぺたっ、ぱたぱたぱたっ。子供らが走り回るときに響く、小さな足音が。
 この三日間の間、子供たち三人を見つめていて、私はつくづく感じ入った。子供はなんてしっかりしているんだろう、そのことだ。大人と一緒にいるとき、つまり、大人に保護されているとき、子供は当然大人に甘えて来るし、わがままにもなる。けれど、大人が少し離れると、子供らは子供らのルールにのっとって、自分たちの世界を自分たちの手でちゃんと守ろうとする。そんな彼らを見つめていると、確かに年齢的には子供だし社会的には一人前とは言えないのかもしれないけれども、大人が思うよりもずっと子供は強いし自分の世界をちゃんと持っている。そしてその世界は、大人が思うよりもずっと、しっかりとこの大地に立っている。そのことを、とても強く思い知らされる。私の娘は五歳、友人の娘息子は七歳に四歳。この世に産まれてまだ十年も経ってはいないのに、彼らは大人が決める偏ったルールなんかとは比べ物にものならないような、柔軟だけれども確固としたひとりひとりのルールを持っている。小さい彼らがそれぞれに持つ世界は、誰かをむやみにはじいてしまうこともなければ、土壌は特別な肥など与えられていなくともとても豊かだ。大人が見落としてしまう小さな花が、彼らの大地にはたくさんたくさん咲いている。それぞれの色、それぞれの形、それぞれの香りを放ちながら。
 彼らの戯れる姿、ぶつかり合う姿、そして、お互いをかばい合う姿を見つめていて、思う。こういった彼らの内にある彼ら自ら持っている肥を、大人の都合でどんどん削り取ってゆく、枯らしてゆくことはどうかしないですみますように。その為には今私にどんな目が必要なのだろう。どんな心が必要なのだろう。私は彼らの背中を見つめながら、そんなことを考えてみる。
 さすがの娘も疲れたのだろう。布団に横になると、私がまだ三曲も歌い終わらないうちにすとんと眠ってしまった。私は彼女の体に布団を掛け直し、いつものように椅子に座る。そして開けた窓から夜を眺める。明日からまた二人の生活が始まる。この三日間に得た目を失ったりしませんように。夜空に向かって私は、小さく呟いてみる。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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