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78回目の、

8月15日、78回目の終戦記念日が終わろうとしている。でも終わってゆくのをただ見送るのはしたくなくて、祖母や祖父の写真を引っ張り出す。父や母の写真も。そして気づく、父方の祖父母の写真を私は一枚も持っていないな、と。

父方の祖父は陸軍所属だった。結構お偉い立場にまでなってしまった人だった。それゆえ戦後、戦犯として扱われた。おかげで定職につけず、その負担は長男だった父の肩に圧し掛かった。父は中学の頃から近所の年下の子どもに勉強を教えたりして家計を担ったそうだ。

ふと思う。そんなふうに息子に負担をかけていることがきっと祖父は分かっていたに違いない。だとしたらどんな思いでその姿を見ていたんだろう。切なくなる。

そんな父は、疎開組だ。会津田島に二宮の本家がある。当時その本家に身を寄せた。5人兄弟の一番上、長男。何が何でも兄弟を守るのだという思いがあった。だから絶対にあのひとは弱音をひとに吐かない。吐いたら負け、とでも思っているかのようだ。「終戦少し前、学徒出陣が始まっていた。父さんももう少しで呼ばれるところだった」父がそう話した時、私は確か、黙ってじーっと、でも半ば聞き流していた。当時は父の話に興味が持てなかったからだ。でも。何故だろう、はっきりその声は私の中に刻まれ、残っている。戦後、塵の山から使えるものを必死に漁り、東京で母と兄弟をひたすら支えた父。父の父が生きて戻ってきたのに、戦犯扱い。父は当時どんな気持ちがしただろう。私はいまだ、そのことについてあのひとに訊ねたことは、ない。でもきっと、父は、恥は口にしないと思う。そういうひとだ。もし私が訊ねても、あのひとの答えはきっと、立派な、堂々とした答えに違いない。

母は山形に疎開したと言っていた。東京が落ち着くまで山形で過ごしたそうだ。だから小学校低学年の頃の友達からの手紙はだいたい山形から届いた。もうそのほとんどの友達たちが死んでしまったそうだ。歳をとるのはそういうことなのね、とこの間母がぽつり言っていた。矢作先生という担任の先生からの年賀状を毎年母は楽しみにしていた。もちろん矢作先生はもうとうの昔にこの世にはいない。だからもちろん、年賀状も届かない。母が年賀状を一切出さなくなったのは、そういえば矢作先生の年賀状が届かなくなった頃だったんじゃなかったか。

そんな母の父、私の祖父は海兵だった。といっても、祖父は調理場担当で、船の中では常に厨房にいたと聞いた。そして或る時爆撃を受けた船が沈みゆくその中で、祖父が体験した不思議なことを、私は祖父から一度だけ、聞いたことが、ある。でもその尊い祖父の話はたった一度きりで終わった。祖父はその一度きりしか、私に戦争の話をしなかった。まるでそれは、決意しているかのように感じられたのを、覚えている。

母の母、祖母は、弟二人を戦争で亡くした。二人とも特攻隊だったそうだ。祖母の母親の夫も当然の如く戦死した。この話は私は祖母からではなく母から聞いたのだが、祖母の母親は戦後まもなく再婚し、一児をもうけたが離婚、父親と母親との間で子供のとりあいが起こりそれは裁判沙汰だったとか。祖母は若くして華道茶道日本舞踊どれもを師範の資格をとり、母親を支えたという。すべて戦争がもっていった、と、祖母はよく言っていた、と母が教えてくれた。

私は。

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