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2005年05月13日(金)

 目を覚ます。何時間眠れたんだろうと枕もとの時計を見ると、三時間半。最近の私にとっては最長記録。窓を開けると、朝特有の空気が私を包み込む。寒いのとは違う、涼しいのとも違う、じんわりと私の全身を包んでゆく、しっとりとした空気。空の色はもうすでに変化し始めている。コツコツという時の足音とともに、薄れゆく闇色。昨夜見た天気予報の通り、空全体に薄い雲が広がっている。
 雀が囀り、車の行き交う音が時々響く。その時、建ち並ぶ家々の窓という窓が燃え始める。その炎は一瞬のうちに街中を燃えあがらせる。そして陽光は一斉に唄い出すのだ。朝の唄を。
 私が私でなかったら即入院させたいと先生が言っていた。私が私でなかったら。私は人の声に囲まれるとその声の棘にぐさぐさと心臓を刺されてしまう。そんな私だから、下手に入院させても逆効果になってしまうだろうと先生が言う。
 腫れあがり熱を持った私の左腕を見、先生が言う。過去の体験が巨大過ぎて、また引っ張られてしまったね、と。今を生きようと必死になるほど、過去の体験が邪魔をする。それでも生きてゆかなければならない。いや、私は生きていたい。
 その為に必要だというのなら、この左腕の一本くらい、鬼にくれてやる。過去の化け物にくれてやる。その代わり、私は生き残ってみせる。

 多分私は初めて、父と話をした。何の話かと言えば、私の今の精神状態のことだ。心身ともに疲れ果てているこの自分の内の話だ。父との間には本当に様々な葛藤があった。それを越えられることがあり得るなんて、十年前だったらこれっぽっちも考えられなかった。でも今は、父や母の協力がなければ、多分私は生き残れない。
 主治医からの助言や忠告も含めて、父と話す。これが一ヶ月続くのか半年続くのか、今はその予想も立たない中、父が言う、分かった、何も心配するな、と。
 それは多分、私が産まれて初めて聞いた父の一言だった。

 平日は別として、金曜日から日曜日にかけて、これからしばらく娘と離れ離れの生活が始まる。ひとりでじじばばのところに泊まるのは、娘にとってはもう慣れたもの。母がこんなだらしない人間だと、娘はしっかり者に育つのかもしれない。娘の姿を見ていてつくづくそのことを思う。そして感謝する。この子を私に授けてくれたその運命に。

 それでもまだ、リストカットはなかなか私から離れていってくれない。食欲も全くなく、一日何も食べなくても平気になってしまった。そういえばこの間何かを口にしたのはいつのことだったろう、ついでに一体何を食べたのだろう、思い出そうとしても思い出せない。これじゃぁ体力が落ちるばかりだと、何でもいいから口に入れようと思うのだけれども、一体何を口にすればいいのか、それがわからなくなってしまう。そして結局、何も口に入れられない。
 昼間の薬が増えて、さらに口の中が乾く。だからお茶が手放せない。でもこのくらい、どうってことはない。口の中が乾いて困るのは私一人だ。

 愛する者を守れない自分の弱さ、小ささを、思わず呪ってしまいたくなる瞬間がある。でもそれが、今の私の姿だ。よく覚えておこう。忘れないでおこう。もっと大きく強くなるために。
 泣くのはひとりでもできる。でも、笑うのは。ひとりでは、できないのだから。

 もっと愛する人になりたい。愛される幸せにももちろん憧れる。けれど、それならなおのこと、私を愛してくれる人たちの愛に見合うだけの人間になりたい。自分なんか、と自分を卑下しながら愛されることを望むなんていやだ。

 友人から手紙が届く。
「私たち、生き延びよう。どんなに腕を切っても足を切っても、命を切ったらだめだ。腕が血だらけになろうが、足が血だらけになろうが、絶対に生き延びろ。
 この傷は、生きている証だ。」
 同じ頃、同じ体験をし、ここまで共に生き延びて来た友人の言葉に、私は思わず返事をしてしまう。そうだ、絶対に生き延びよう、絶対に。私たちは生き残るんだ。手紙に向かって声になったその自分の声に、私は自ら頷く。

 開けた窓の外に耳を澄ます。街の寝息が聴こえる。樹々の唄が聴こえる。夜闇が通低音を奏でる。そして明日が今日に、また近づいて来る。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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