見出し画像

2009年12月03日(木)

からからという軽い乾いた音で目が覚める。ココアの回し車の音だ。これががらがらという重い音だったらミルク。それぞれに回し車の音さえも違う。今朝は何故かふたりとも起きており。ミルクはがしっと籠の入り口に齧りついて、人が来るのを待っている。娘が起きるまで待っててね、と私は声をかけ、窓を開ける。窓際の金魚たちも私を見つけて水面に浮かんできた。餌はまだだよ、と声をかける。
窓の外は雨。しとしと、しとしとと降っている。昨日のあの美しい月は何処へいったのか。あの空と月からは、今朝の雨など想像できなかった。澄んだ満月。それは月の裏側まで透けて見えるかと思うほどに。
晴れていたら。カメラを持って出ようと思っていた。雨のことを考えていなかった。どうしよう。私は髪を梳かしながら迷う。このまま雨は降り続くのだろうか。それとも止むのだろうか。空を見上げれば、一面どんよりと雲に覆われている。出掛けるまでに止んでいたら。カメラを持って出よう。私はそう決める。
ミミエデンの病葉はまだなくならない。そこ、ここ、あそこ、私はひとつずつ摘んでゆく。テーブルの上、一輪挿しに飾ったマリリン・モンローは、まだ固い色合い。それでも少し花は大きく広がったか。これがぱあっと広がった時。それが見たい。どんな様を見せてくれるだろう。想像するだけでどきどきする。

バスに乗り、電車を乗り換え、延々と。そうしてようやく国立に辿り着く。書簡集が開くまでの僅かな時間、私は駅前の喫茶店でカフェオレを飲む。肩甲骨の辺りから、頭と首の繋がるところまで、ごりごりと凝っている。私はそこに手を当てながら、薬を飲むかどうか考える。頭が重い、身体がしんどい。それはここ数日そうだった。今は鈍い痛みがどくどくと脈打っている。結局私は薬を飲むことにする。二錠。痛み止め。
痛み止めを飲む時、私は母を思い出す。母も偏頭痛持ちだった。ふと見ると、ベッドに横になり、うんうんと唸っていた。痛み止めを飲んだのかと聞くと、飲んだと返事が返ってくる。でも痛み止めが効いているふうではなく、母はいつもしんどそうだった。母の枕元にはだからいつも、陶製の枕があった。それは頭を乗せるところがすべていぼいぼになっている。母はたいていその枕に頭を乗せて、乗せるというよりそのいぼいぼにこめかみの辺りをいつもぎゅっと押し付けていた。この枕があるだけでずいぶん違う、母はそう言っていた。思春期になって私にも頭痛がたびたびやってくるようになった時、母のその枕をこっそり借りた。ひんやり冷たくて、でもごりごりとするその突起が痛い部分にちょうど当たって、頭痛が半減した。その枕に頭を押し付けながら、私はあまりの痛みにしょっちゅう涙していた記憶がある。陶製の枕では、涙は染み込まない。だから涙はシーツにまでとぽぽと落ちてゆき、そこに水溜りを作った。
一人暮らしを始める、その引越しの時、私は、母のこの枕をこっそり持って出た。これから一人になる、体調が悪くても何でも一人でやっていかなくちゃならない、そう思った時、この枕はどうしても持っていきたかった。でも母に言ったって譲ってもらえそうにはなく。だから私は、母の目を盗んでこっそり持って出た。たった一人で為した引越しだった。
枕のことを告白できたのはだから、それから十年以上経ってからだった。実は、と切り出すと、何を今更と、母は笑った。あれがなくて本当に困ったんだから、と。困っただろうと思う。その分私は枕に助けられた。何処を探してももう売っている気配は無い、陶製の、いぼいぼの枕。

書簡集でしばらく時間を過ごしていると、一人の女のお客さんが入ってきた。書簡集の奥さんが話してくれる、西荻窪でお店をやってらっしゃるのよ、と。その方は私の名前を覚えていてくださり。こういったテーマで写真を撮られる方がいるとは思ってもみなかったの、みなさんの手記、読ませていただいたわ、胸がいっぱいになって、でも、あぁこういう現実があるんだなぁってつくづく思い知らされたわ。その方は一気にそう話してくださった。私は写真ってまだよく分からないの。そもそもただ美しいだけの写真は、見流してしまうし。でも、何かが引っかかったの。そうしたらこの手記があって。読んで改めて見ていたら、本当に胸がいっぱいになったの。
私より二十も年上のその方が、そう話してくださる。私は深く頭を下げた。この言葉を撮影に参加してくれたみんなに伝えたい、そう思った。
その次にいらした年配のお客様も、私のことを覚えていてくださり。ありがたいやら恥ずかしいやら。それもこれもみんな、これらの写真を撮らせてくれた、みんなのおかげだ。いくら感謝しても足りない。
こういった人たちとの出会いは、私にエネルギーを与えてくれる。私をそれまで覆っていた倦怠感など、一気に吹っ飛んでしまう。あぁまた頑張ろう、そう思える。

ママ、ソーラーカーのハンドルをね、明日作るの。そうなの? それができあがって車に取り付けたらね、最初に校長先生が乗ることになってるの。へぇ、そうなんだ。校長先生、メタボなのに車に乗って大丈夫なのかなぁ。ははは、壊れちゃったりして。壊れたら最悪だよぉ。まぁ大丈夫じゃないの? んー、校長先生がお金出してくれたから、校長先生が一番最初に乗るって決まってるんだよね。じゃぁ頑張って作らないとね。うん。
ソーラーカーなんて、私は作ったことがない。一体どれくらい大きな車なんだろう。本当に走るんだろうか? 空を見上げながら思う。いい天気がしっかり続いてくれないと、あの校長先生を乗せて走るなんて、やっぱりちょっと無理かも、なんて思って笑ってしまう。

国立から横浜に帰ってくると、ちょうど娘からメールが入る。今から電車に乗るよ。メールにはそう書いてある。私は急いで電話する。今どこ? 何番線? 6番線。私は走る。間に合うかどうか。ママ、もう電車出ちゃうよ。どの辺りに乗ってるの? エレベーターのところ。エレベーター、いっぱいあるよ。今ママ、真ん中辺りまで来てるよ。顔出して。何処? 顔出してるよぉ。あぁもう出ちゃう。間に合わなかったかぁ…。
すれ違いで、電車は扉を閉め走り出してしまう。私は息を切らしながら、ホームの真ん中に立っている。娘が電話越し、泣声を出す。会えなかったよぉ。うん。でもまたすぐ会えるし。しょうがないよ。ね。うん。ほら、泣かないの。うん。じゃぁ頑張るんだよ。うん。
昔は携帯電話なんてなかった。もしあったとしても、私の両親が子供にそれを持たせたかどうか。だから、こんなふうにメールのやりとりをするなどあり得なかった。それが今、私と娘はどうだろう。忙しい娘とばたばた走り回る私との間を、メールは実によく繋いでくれる。そのおかげで、口には出さない娘の思いを、知ることができたりすることもある。メールも使いようなのだろうな、と、思う。
ホームを出てゆく電車を見送りながら、車内で泣きべそをかいている娘の顔を想像する。あの子は感情が激しいから。きっと本当に、下唇をつきだして、べそをかいているんだろう。でもママも一生懸命走って、それでもだめだったってことなんだから、諦めておくれ、娘よ。またすぐ会えるのだし。私は心の中でそう娘に語りかける。

僅かな雨の隙間を縫って、私は自転車で飛び出し、カメラを構える。今にも雨が再び降り出しそうな気配をひしひしと感じながら、これは帰り道はびしょぬれになるんだろうなと思いながら、私はシャッターを切る。娘には傘を持たせた。親の私がびしょぬれってどうなのかしらん、そんなことを思いつつ、それでも私はシャッターを切り続ける。
貨車の走る線路。埋立地のちょうど境目にそれは在り。私は踏み切りに立ち、しばらくそれを眺める。どう構えても、高層ビルが入ってしまう。でも入れたくない。なら線路だけを撮るしかない。私は余計なものを全て排除して、シャッターを切る。銀杏の木、池の水面、濡れた階段、寒さに凍えるポスト。あらゆるものが待っていてくれる街中。
そうして自転車を駐輪場に止める頃、再び雨が降り出す。あぁやっぱり。私は苦笑する。帰り道は濡れて帰るしか術は無い。大きなハンカチは鞄の中に入っているはず。それだけが救い。
友人から電話が入る。とあることについて知りたいという。私は了解し、また電話をくれるように頼む。遠距離電話ゆえ声は小さかったものの、ここしばらく聞けなかった、はきはきした彼女の声だった。私はほっとする。嬉しくなる。
雨だけど。自転車で出たのに雨降ってきちゃったけど。まぁいいこともあるサ。そう、きっと。私は空を見上げながら思う。
この雲の向こう側は、いつだって青い空が広がっている。

ここから先は

0字
クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!