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2005年12月24日(土)

 横になってみたものの、浅く短い眠りを少し得られただけで、身体も意識も早々に起立してしまっていた。私は布団から這い出して、軽く上着をひっかけ、窓際へ。カーテンの向こうの空はまだ、ほんの少し白み始めたばかり。鳥の一羽さえ横切る者もなく、街はしんとしている。
 私は窓を半分開け、如雨露を手に取る。そしてプランターひとつずつに、たっぷりと水を撒く。じきにプランターの底から水が零れ始める。それを合図に、私は次のプランターへと移る。このところ乾燥が強くて、特にラナンキュラスはすぐに葉がへたってしまう。だから、私はしゃがみこみ、一枚一枚葉を撫でて、お水いっぱいあげるから元気になろうね、と話しかける。アネモネや水仙は相変わらずだ。まっすぐに空に向かって手を伸ばしている。花韮も、ひょろりんとしたひげのような葉を伸ばし始めており、それはちょっと滑稽な姿。
 一通り球根のプランターに水をやると、今度は薔薇の樹の方へ移る。こまめに水をやっているつもりなのに、土は瞬く間に乾いてしまう。だから今日も私はどくどくと如雨露から水を撒く。ひとつ、ぷっくらとふくらんだ蕾が、枝と枝の間かくれるようにして在る。私はそこに指を伸ばし、触ってみる。ねぇ、頑張って咲いてよね、話しかけながら、二度、三度、そっと撫でる。こんなんで気持ちが伝わるとは思わないけれども、植物と相対するとき、私はつい、話しかけてしまう。もちろん彼らは沈黙し、決して返事など返してはこない。それでも、いいのだ。私が彼らに話しかけることを、伝えることをやめてしまうのは、やっぱり、できそうにない。
 気づけば、空は東の方から白く輝き始め、朝が動き出している。さっきまで一台も姿の見えなかった表通りにも、気づけば忙しなく、車が行き交っている。私は如雨露を片付け、部屋に戻る。そして、思い切り顔をばしゃばしゃと洗う。

 急患扱いで、朝一番に病院へ出向く。椅子に座っていることもしんどくて、小さなソファーに身体を丸めて目を閉じる。誰ともすれ違いたくなかったし、誰とも目を合わせたくなかった。私はここにいるけれども、ここにいないかのように誰彼もに通り過ぎて欲しかった。だから私はなおさらに身体を小さく丸め、縮こまって、自分の名前が呼ばれるのをひたすら待っていた。
 診察室に入り、先生にメモを渡す。言葉を発することが全くできないわけではなかったけれども、いくら言葉を尽くしたとて、上滑りしそうな気がした。だから、昨夜のうちに書き記したメモを渡した。
 言われることは、すでに分かっていた。先生が言うだろうことは、もうすでに、これまでにもさんざん言われ続けていることだ。私も頭ではそれを理解している。しかし、感情ではそれを割り切ることができず、延々と引きずっているのだ。
 父母のことを、相手に理解してもらえるように説明することは、至難の業だ。近しい友の中でも、ほんの数人しか、私と父母との関係の実情を把握している人はいない。
 「ねぇさをりさん、何度も言っているけれども。切り捨てるしかないのよ、もう。彼らはあなたの命を削ることしかしないことは、もう充分に分かっているでしょう? そんな人たちに、それでもあなたは期待してしまう、信じようとしてしまう、でもそのたびそのたび、あなたは突き落とされて、ぼろぼろになってる。もう、いい加減割り切らないと。期待してはいけないのよ。諦めなければいけないのよ。割り切らなくちゃいけないの。分かる?」
「頭では、分かります。でも、でも、私、心の奥底で、やっぱり親たちのことが好きなんです。そして彼らを愛してるし、彼らからもできるならほんのちょっとでいい愛されたいって願ってしまってる」
「でもね、それは無理なの。無理。どうやっても無理。そのことも、分かってるわよね?」
「…はい、分かってます。分かってるけど、けど、って思ってしまって、だからぐちゃぐちゃになる」
「このメモ、すべて、あなたはあなたのことをひたすら責めてる。でも、本当にあなただけが悪いの? あなたが悪いの? 違うでしょう? 誰が見たって、おかしいのはあなたじゃない。あなたは正しい。当たり前の反応をしているだけよ」
「…そうなんでしょうか」
「あなたから怒りを奪い、あなたの生存自体に罪悪感を植えつけたのは、あなたのご両親だって事を、もういい加減受け容れなくちゃだめ」
「…頭では、分かります。頭では。でも、心がついていかない、それでも、それでも血のつながった親なのだから、とか、思ってしまう」
「血が繋がっていようが繋がっていまいが、そんなことは関係ないの。血なんてものにに惑わされちゃだめ。あなたが大切にしなければならないのは、信頼関係を結んでいる人たちをこそなのよ」
「…分かってます」
「あなたがあなたの価値をちゃんと認めないでどうするの。自分をしっかり見なさい、そして、自分を貶めるのではなくて、自分を認めてあげなさい。あなたがそれをしないで、一体どうするの。そんなあなたを見ていたら、みうちゃんだって不安になるわよ」
「…それは、いやなんです、そんなことにだけはしたくない、でも、でも、どうやって自分の中のこの、これでもかというほどの強力な罪悪感と無価値無意味さ加減を転換したらいのか、全然分からないんです。浮かんでくるのは、いつだって、生きてること自体への私がここにいること自体への罪悪感ばかりなんです」
「あなたはここにいるべき人間なの。あなたにはここに存在する価値がこれでもかというほどあるのよ」
「…」
「とにかく。振り回されちゃだめ。あなたのご両親は確かに血のつながった親だけれども、あなたを支配するばかりであなたをこれっぽっちも信頼していないことを、ちゃんと受け容れなさい。そして、諦めなさい。諦めるところからもう一度、新しく始めるしかないのよ」
「…」
「死ぬ意味なんてないわ、あなたがここから消滅する意味なんてこれっぽっちもない。あなたはここに存在すべき人間なの、それだけの価値があるってことを、忘れないで」
「…」
「ね?」
「…」

 帰り道、私はただ項垂れる。先生も、数少ない私の父母を知る親友たちも、みな同じ事を私に言う。このままじゃあなた潰されちゃうよ、と、真剣な面持ちで私に必死で訴えてくれる友の顔が浮かぶ。分かってる、分かってるのだけれども。
 降り立った駅、長いエスカレーターが私を地上へ運ぶ。自動ドアを潜り抜け外へ。途端に吹き付けてくる北風。私の髪はぶわりと煽られ、咄嗟に右手で髪を押さえる。
 街路樹の殆どはもう、全ての葉を散り落とし、代わりに今は、イルミネーションでびっしりと飾られている。クリスマスが終わるまであと少し。それが終われば、彼らも重たい荷物から解放されるんだろう。
 家に戻り、洗濯を始める。こんなときは、とにかく何かしら身体を動かすのがいい。色物、タオル、下着、それぞれに分けた洗濯物を、ぽいっと洗濯槽に放り込み、スイッチを入れる。次は布団乾燥機をセットして、その次は、冷蔵庫に余っていた材料を使ってトマトスープを作る。
 「ねぇ、もう一度言うわ。あなたの中にこれほどまでに根強い罪悪感、それからあなた自身が無価値無意味であるというその感覚を植えつけたのは、間違いなくあなたのご両親なの。それが、あなたをどれほど苦しめ、貶めてしまっているか、もう分かるわよね? だから、もう、あなたの中で親と縁を切るしかないのよ。あなたはあなたを守らなくてはいけないの。あなたがあなたを守るということは、みうちゃんを守ることにもつながるのよ。ね? とても難しいけれど、あなたの中の、あなたの根源に絡み付いてしまっているその強力な罪悪感を、いつか解いてゆかなくちゃ。ね、一緒にがんばってみましょう」
 先生の声が頭の奥の方で木霊する。私の根源にでーんと横たわるこの罪悪感、それを一体、どうやて解こうというのだろう。私はひとつ、小さくため息をつく。
 こんな時、気を抜くと、刃をまた自分の腕に当てて幾重にも切り裂いてしまうから、私はとりあえず机から離れて、床の上にうずくまる。
 窓の外を、カラスが三羽渡ってゆく。手前の街路樹には、珍しく、夥しいほどの雀が止まっており、ちゅんちゅん、ちゅんちゅんと鳴きながら、くりくりと頭を動かし、周囲の気配をかがっている。
 あぁそうか、気づいたらもうたそがれ時なのだ。私はゆっくり立ち上がって、お湯を沸かす。スキムミルクを一杯。両手でマグカップを包み込むようにして持ち、私は再び床の上にぺたり。
 私が座ると同時に、雀が激しい羽音を立てて、一斉に飛び立っていった。残された街路樹は丸裸になり、風に寒々と晒されている。
 今、日が堕ちる。西の地平線がくわりとふくらみ、そして沈んでゆく。どんなに迷ったって途方に暮れたって泣いてみたって、こうやって今日は終わりゆき、明日は必ずやってくる。そして私はまた、今日になってゆく明日を、生きるのだ。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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