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2010年01月10日(日)

ミルクの、がしがしと籠を噛む音を聴きながら窓を開ける。軽い闇が広がっている。すっきりと澄んだ闇。ベランダに出てゆっくりと深呼吸する。体がすっと軽くなってゆくのが分かる。一枚分服を脱いだときのような軽さ。
ミルクを手に乗せながらお湯を沸かしにかかる。ミルクは本当に、ひとときもじっとしていない。ゴロがじっと掌に乗っているのと全く反対だ。ちょこまかちょこまか、いや、彼女の場合もっとこう、ちょこちょこちょこちょこと、ひっきりなしに動き回る。手から落ちそうになる彼女を何とか止まらせ、私は陶器のカップにハーブティを入れる。レモングラスから染み出す色は相変わらず清んだ檸檬色で。また後でねとミルクに声を掛けて籠に戻し、私はカップを口に運ぶ。含んだ一口が、あっという間に体中を駆け巡る。
娘が留守な上、ここ数日朝の仕事は休んでいるから、今日は本当にゆったりしている。正直、どうやって時間を過ごしたらいいか、迷うくらいだ。私は本を開く。小川洋子のあの小説を本棚から引っ張り出し、頁を捲る。そのタイトルはそのまま、小川洋子の文章を言い表している。密やかなる、結晶。もし指で触れたら、きーんという音がしてきそうなほど凛と澄んで緻密な。そんな文章を、私はじっと読む。
一通り読み終えて次に開いたのはクリシュナムルティ。「あなたはそれを見るのです。そして見ることは観察に干渉する〈私〉という感覚が存在しないときにのみ可能なのです。」「あるがままのものとは事実です。」「人がなすべきことは何なのでしょう? なすべきことは事実の観察―――いかなる翻訳、解釈、非難、評価もなく観察すること―――ただ観察することだけです。」。彼の言葉を読みながら、私は振り返る。
ちょうど窓の向こうは空が緩み始めたところで。南東の地平線、ほんの僅かに暗橙色に染まった地平線から伸びるグラデーションは、決して人が描き出すことのできそうにない色合いをもって広がっており。
私はただ見入る。今まさに新しい日が始まる瞬間を。

先生に会いに行った。先生の風貌は、手塚治虫の描くお茶の水博士の、あのでっぱったおなかがないといったもの。もう何年会っていなかったろう。覚えていない。思い出せない。そのくらい長い間、時々交わす書簡だけだった。電話で「分かるよな?」と先生は言い、私も「分かるでしょう」と笑ったが、実際すぐに分かった。先生は相変わらずお茶の水博士で、ただ髪が真っ白に変わり少し顔色が悪いということだけで。
先生は会ったそばから、ひたすら喋り続けている。私はただその声に耳を傾けている。私は先生の声に耳を傾けているのが好きだ。余計なことは何もなくなり、ただ声だけが耳の奥に響いてくる。そういう時間だ。
先生の声がふと止まる。どうしたのだろうと思っていたら先生が、「日常の話をすることなんて本当にないからなぁ、おまえと会って何を話したらいいんだろうと考えていた」と言い出す。私はちょっと可笑しくなる。そんなこと考えなくていいのに、と思う。でも、人の前に出ると格好つけてしまう先生だから、そうやって自分を奮い立たせてくれているのだろう。先生はもう八十歳だ。考えてみればうちの父よりもずっと年上である。私はふと心の中思う。先生と会うことができるのはあと何度あるだろう。もしかしたらこれが最期になるかもしれない。もし最期だとしたら。
私は直接先生に担任してもらったわけではない。高校時代一時期、たった一単位の授業で見ていただいただけだ。その最初の授業で先生は「本を読むな」と言った。そのときの私にはそれは衝撃だった。冗談じゃない、と思った。本を読むな? 国語教師が何を言っているんだ、と思った。いや、国語教師だからじゃなくてもいい、本を読むなとはどういうことだ、と。そのときの私は思ったのだ。最初に行った高校を辞め、再度受験して通い直し始めた高校での出来事だった。その頃の私には友人らしい友人もなく、言ってみれば本が友人だった。本だけが私の、存在を赦された世界のように思っていた。だから、本を読むななんていわれても困る。とんでもない。そう思ったのだった。だから私は先生に手紙を書いた。どういう気持ちで先生は本を読むなと言うのか。それはどういう意味なのか。教えてくれ、と。
そうしたら数日後、放送で名前を呼ばれた。先生のところへ言ってみると、先生がぐいっと、一冊の詩集と原稿用紙八枚もに渡る長い手紙をくれた。先生の字は達筆すぎて、一瞬何が書いてあるのか迷うほどだった。しかし、一言一句逃してはならない、そう思えて、私は齧り付くようにして読んだ。
先生とのつきあいは、それから始まった。大学へ行っても、私は折々に先生を訪ねた。笑うにしても泣くにしても、先生の元でならできた。まっさらになれた。
今もあの手紙と詩集は、私の本棚の中、ひっそりと佇んでいる。私は時々それを開く。
先生が言う。「おまえは人が好きなんだなぁ。俺は人が大嫌いだけれども」。それを聴きながら、先生は大嫌いといつも言うけれども、先生ほど人の中に在て必死になっている人はいないと、私は思う。もし先生の「人嫌い」が私が思うところの意味であるなら、私も人嫌いだ。
先生の話の中で、幸せという言葉が明治以降出てきた言葉であることを私は知る。そして、もともとは、死合わせであったということを。
死合わせ。死んでもいいほどの死んでもおかしくないほどのモノ・コトと出会うこと。それをしあわせと言うのであれば。
私はどれほど幸せだったろう。これまでの人生。

先生は台風のようにやってきて、台風のように去っていった。来るときも呆気ないならば去るときもあまりに潔くて、私はちょっと笑ってしまった。私は先生の後姿をちょっとだけ見送り、そして歩き出した。
先生。私は、先生によってあの頃生かされていました。あの時先生との出会いがなかったら、私は窒息して、倒れていたに違いありません。友人の死を経て、謂れ無き罪を背負って、もうどうにでもなれと思っていた私を、ひょいと救い上げてくれたのは先生でした。先生の授業は、あの頃の私にとって唯一、呼吸できる場所でした。一週間にたった一時間、それが在るかないかは、大きな、そう、大きすぎるほどの差でした。そしてまた、大学になって、或る日突然指が動かなくなり、ピアノが弾けなくなったあの時、ただそばにいて私を泣かせてくれたのも先生でした。先生は、「おまえは俺のカウンセラー役だったからなぁ」と言うけれども、それは逆です。先生はいつもそこに在て、振り返ればそこに在て、それは私の、指針でした。先生が在る、そのことだけでもう、私は支えられていました。ありがとう、先生。ありがとう。
だから先生、もう少し生きていてください。死んでしまわないでください。先生の声をもうしばらく、聴かせていてください。
冬の只中。空は高く高く高く。残酷なほど高く。そして痛いほど眩しく。私の上に広がっていた。

涙が零れるのは何故だろう。朝から一人、泣いているのは何故だろう。それでも涙が止まらない。何度拭っても零れてくる。

ベランダでようやくホワイトクリスマスの蕾が綻び出した。ほんの僅かだけれども、でも間違いなく綻び始めた。芯の方の色の白さがただそれだけでもう私の目には眩しく。私は一瞬目を閉じる。
自転車に跨り、走り出す。眩い朝の光が街に溢れている。一方影の部分のなんと暗いことか。なんと冷たいことか。こうして走っているとその違いがありありと分かる。なんと正直なこの体。でもこの体があるからこそ、感じられるモノがここに在る。
冷気に刺され千切れそうになる指先を擦り合わせながら、私はそれでも走り続ける。多分今頃、左腕の傷跡が紅く紅く浮き上がっているに違いない。もう痛みも何も感じないけれども、それでも腕はそこに在り。私を黙って助けてくれる。
走る私の脳裏を過ぎるのは「死合わせ」という言葉。その意味。一体幾つの死合わせが、私を構築してきただろう。私の今は、それらの上に立っている。
大通りの信号。待つことももどかしく、私は思い切り信号無視して渡ってしまう。休日の朝ゆえにできること。すいすいとそのまま走れば美術館の隣、モミジフウがすっと立つ場所。ひとつだけ落ちていた実を拾い上げ、握ってみる。冷え切った実が私の掌の中。私はそれを握り海まで走る。そして。思い切り投げてみる。瞬く間に海に落ちる実。そして。海は。
呑み込んで呑み込んで。還してゆく。世界へ。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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