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2009年11月26日(木)

眠る前、珍しく寒い寒いと言っていた娘だったが、寝入って一時間もしないうちに布団をばんばん蹴っている。そのたび掛け直すのだが、掛け直せば掛け直しただけ蹴り倒す。私はもう諦めて、腹の部分にだけ毛布を掛けてやる。その隣に私は、毛布と掛け布団を両方しっかり掛けて横になる。この違い。
口元にひとつにきびができてしまった。それが数日前から気に懸かって気に懸かって仕方がない。いつもより念入りに洗顔し、化粧水をやわらかめに叩き込む。できるならぎゅっと押し潰したい気分。それを何とか宥めて、鏡の中を覗かないようにして、日焼け止めを塗る。今日はもう口紅はやめた。リップクリームで誤魔化す。
ベランダに出て髪を梳く。梳きながら薔薇を見つめる。特にミミエデンの葉をじっと見つめる。やはり病葉が。私は見つけたものから順にすべて摘んでゆく。あぁミミエデンにも蕾がついたのか、と気づく。しかしそれも病葉のまさにその間から生まれ出ている。どうしよう。残そうか、切り落とそうか。私は迷う。結局、もう少し大きくなるまで様子を見ることにする。
マリリン・モンローの蕾はもうこれでもかというほど太っているのに先も綻んでいるのに、それでもまだ開かない。一体いつ開いてくれるんだろう。今日明日は天気がいいと天気予報が言っていた。その間に開いてくれればいいのだけれども。その隣のホワイトクリスマスの蕾は順調に大きくなってきている。でもそのホワイトクリスマスにも病葉を数枚見つける。私は容赦なくそれを摘む。
パスカリなどのプランターに目を移す。そちらはもうずいぶんと刈り込んでしまったから、病葉もなにもない。唯一不安な株をじっくりと見つめるが、今のところ新芽も大丈夫なようだ。私は安心する。
空を見上げる。何となく町全体が霞がかって見えるけれども、それは昨日の天気の延長だろう。今日は晴れる。もうすでに東の空が割れてきている。

病院、診察の日だった。いつもと同じように医者は娘のことをまず尋ねてくる。そして父母のこと、最後にほんの少し私のこと。それで終わり。
処方箋を薬局で受け取った後、喫茶店へ。友人を待つ。カフェオレを啜りながら、私は本を捲ったり葉書を書いたりしながら待つ。
友人が、娘さんが高校に合格したのだということを話してくれる。よかった、本当によかった。でも。娘さんが今置かれている環境は劣悪らしい。施設で、あることないこと先生方から言われ、娘さんはもう精神的にかなり参ってしまっているようだ。その施設は、役所の人からぜひにと言われて決めた場所だったらしい。でも現実は。知れば知るほど友人にとっても娘さんにとってもたまらない場所だった。その役所の担当者を問い質そうにも、今その担当者はもういないのだという。引継ぎはなされなかったんだろうか。そうだとしたら無責任すぎる。
この後、彼女はもう一件病院に行くのだと言う。私も知っている場所だった。でももう私には関わりはない。少しざわつく胸を私は抑え込む。そう、もう今の私には関わりはない。
できるなら。彼女がそこで得られるものがありますよう。彼女にとってそれが頼りになる場所でありますよう。今は祈るばかり。

娘を見送った後、急に衝動に襲われる。過食の衝動。気づけば幾つものおにぎりを私は目の前に置いており。
その時、突然メールが届く。今過食嘔吐してしまいました、とそこにはある。私は吃驚する。今まさに自分がしようとしていることは何なのか。過食嘔吐じゃぁないか。愕然とする。急いでそのメールに返事を打つ。何とか彼女の気が紛れないかと言葉を探す。
彼女にメールを打ち終わった後も、まだ私の心はざわついており。このままじゃ本当に過食嘔吐してしまう、そう思った。何とかならないものか、私は部屋をぐるぐる歩き回りながら考える。そうしているうちにぐったり疲れてしまった。横になることにする。横になって、目を瞑る。呪文のように、眠ってしまえ、眠ってしまえと自分に言い聞かせる。
気づけば一時間ほど時間が経っていた。もうすっかり辺りは闇の中。私はその間どうしていたんだろう。記憶が無い。寝入ってしまったんだろうか。覚えていない。でも覚えていないってことは多分眠ってしまったんだろうと自分を納得させる。そうして友人にもう一度メールをうつ。大丈夫?と。

記憶がぼやけているのは、いつものことだ。でもそこが全くの空白のままだと本当に不安になる。自分は一体何をやっていたんだろう、その間何をしていたんだろう、自分を責め苛んでしまう。何故自分は覚えていないのだろう、どうして覚えていないのだろう、何故、どうして。
自分の時間軸がまるで歪んでいるかのような錯覚を覚える。またあの頃に舞い戻ってしまったのか。そんな気さえする。だから余計に不安になる。どうしようもなく不安になる。もう戻りたくない、あの頃には戻りたくない。そう思うから。

このまま家の中にいたらどんどん私は自分を責め苛んでしまう。そう思い、鞄を肩にひっかけ部屋を飛び出す。バスに乗り、数時間後娘が戻ってくるはずの場所に逃げ込む。
本を読もうにも読めない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。文字が文字として認識できない。試しに文字を自分で書いてみる。書きながら、自分が今何を書こうとしているのかが分からない。思いつく言葉を片っ端から書いてみる。それでも、自分の立ち位置が把握できない。私は泣きそうになる。
注文したアイスピーチティは今の私には冷たすぎて。余計に泣けてくる。ぽろぽろと零れ出す涙。何とかハンカチで押さえて誤魔化す。髪の毛を垂らしていれば、周囲には多分見えないんじゃないか。そう思って結わいていた髪を解く。

ママ、昨日ね、給食なかなか食べさせてもらえなかったの。なんで? なんかね、友達が私が睨んでるって言って、それを先生に言いつけて、そしたら先生が怒って、お説教されて。それでなかなか食べさせてもらえなかった。そうだったんだ。私、睨んでなんかいないよ。ちらって見たりもしてないのに。睨んだって言われるんだよ、いつも。うーん、そうかぁ、それはママもよくあったよ。そうなの? うん。目が大きくて強いせいなのかなぁ、ママがぼーっとして前見てただけなのに、またこっち睨んでる、怖いってよく言われた。おんなじだぁ、なんでそんなこと言われなくちゃならないの? うーん、何でだろう。ママにもよく分からない。ママの目もあなたの目も、大きくて強いから、みんなそれを見て誤解しちゃうのかもしれないね。それであなたはちゃんと給食食べることできたの? あったりまえじゃん、悔しいからおかわりした。ははは。じゃぁよかった。

じゃぁママは自転車ね、どっちが早く着くか競争だよ! 娘は駆け出す。私はまだ鍵を解いてないというのに。慌てて鍵を差し込んで、自転車に跨る。が、もうすでに彼女は集合場所に到着し、やーい、と手を挙げている。私は苦笑しながらゆっくり自転車を漕ぐ。
おはよう。声をかける。珍しく女の子がおはようございますと小さな声で返してくれる。なんだかちょっと嬉しくなる。おはよう、おはよう、おはよう。私は順々に声を掛ける。
まだアスファルトは斑に濡れているけれど、この陽光、今日はやっぱり晴れる。私は目を細めながら空を見上げる。隣で娘も同じ仕草をする。この目のせいで、あんたもやっぱり損をするんだなぁと心の中で思いながら。でも、損なことばかりじゃないよ、この目だからこそ見えるものも在る、絶対に。私はそう思う。
じゃぁいってらっしゃい。はーい。またあとでねぇ。そう言って手を振り合いながら別れる。別れた途端、私は忘れ物をしたことを思い出す。慌てて逆戻り。そう、今日は友人に大切なものを渡す日だった。ちょっと遅れた誕生日プレゼント。これを忘れたら何にもならない。
公園を横切るとき、中央の池を覗き込む。散り落ちた落ち葉が陽光を受けてまるで虹色に輝いている。私はいっときうっとりする。赤く染まって水面に浮かぶ桜の葉。きらきらと満面の笑みを浮かべて輝く葉。落ちた木の実を啄ばみにたくさんの鳥が集っている。
そうして黄金色の銀杏並木を抜け、私は海の方へ海の方へ。雲の裂け目からさぁっと日が堕ちてくる。あぁ階段だ、天国への階段。
大丈夫、今日はきっと大丈夫。昨日の衝動はもう収まった。今日は今日。私はべダルを漕ぐ足にいっそう力を込める。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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