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2009年10月26日(月)

細く開けた風呂場の窓から滑り込んでくる冷気で目が覚めた。夜中何度か、娘に布団を掛け直したことを覚えている。掛け直すたび、彼女はまた布団をはいでいたくせに、いつの間にか私の布団に身体を滑り込ませ、私の足にぴったりその足を絡ませてきていた。寒かったのだろう。私は彼女の身体を自分の布団で包み直し、起き上がる。ベランダに出ようとして気づく、雨が降っている。どおりで寒いわけだ。私は改めて洗面台の前に行き、顔を洗い、髪を梳く。鏡の中、少し浮腫んだ顔が映っている。それがいやで、何となく目を逸らす。
浮腫んだ顔を再び鏡に映しながら、念入りに化粧水をはたく。気に入らない顔でも自分の顔、今日一日つきあう自分の顔、だから少しでもましになるよう、今度はじっと鏡を見つめながら化粧水をはたく。その上に日焼け止めを塗り、軽く口紅を引いて終わり。ただそれだけの作業に時間が流れる。
私はカーテンの隙間から、もう一度外を見やる。雨と強風とに煽られ街路樹の葉が踊っている。明日は搬入日だというのに大丈夫だろうか。私は自分の心が不安に覆われてゆくのを感じる。でも、天気ばかりはどうしようもない。私が左右できるものではない。

うっかりしていた。海に見入っているうちに、煙草入れを海に落としてしまった。お気に入りの大事な煙草入れだったのに。私は真っ黒な海を見つめる。何処に落ちたのか、今何処にあるのかなんて見つけようがない。そんな暗さだった。それでも、恨めしくて、煙草入れを飲み込まれたことが恨めしくて、私はじっと見つめる。暗闇の中で白く砕ける波が、まるでそんな私をあざ笑っているかのように翻る。もう何処にも、私の煙草入れはなかった。まさに飲み込まれてしまった。
帰宅して一番にやったことはだから、和紙を使って煙草入れの代わりを作ることだった。今手持ちの和紙は赤しかない。それでも作った。とりあえず作れるものを作ってみた。しかし。和紙で作ったものは、真新しすぎて、手に馴染まない。失くしたものがどれほど自分にとって大切だったのか、失くしてから改めて知る。悔やんでも悔やみきれない。海に見惚れていた自分が馬鹿だった。そうとまで思えた。なんだか情けなくて、泣けてきた。そんな私を娘が不思議そうに見ている。それでも、私は嘆くのを止められなかった。

彼の絵はたくさんの絵本になっている。私の手元にもそれなりの数彼の絵本がある。そんな彼の絵が一堂に飾ってある。とても小さな美術館。それでも、雨の中、たくさんの人が訪れている。絵を前にして若い男性がこんなことを隣の彼女に呟いている。絵が喋ってるみたいだ。彼の言葉はまさに当たっていた。ワイルドスミスの絵は、こちらに語りかけてくる。そんな力を持っている。
青い鳥の絶版になった絵本が片隅に置いてあり、私はそれをしげしげと眺める。青い鳥の絵本の彼の絵は、透明で、時に残酷に、時に穏やかに、こちらに語りかけてくる。私は一枚一枚その絵を見つめる。何処からか青い鳥の啼き声が響いてくるかのような錯覚をおこす。
迷いに迷い、結局、私は娘に「うさぎとかめ」の絵本を買って帰ることにする。そんな話もう彼女だって知っている。知っているが、その絵はとても新鮮で、新しいうさぎとかめの話を見せてくれるかのようだった。
美術館を出ると再び雨。見上げれば空は一面、濃灰色の雲に覆われている。

待ち合わせの場所で待っていると、娘がきょろきょろしながらやってくる。ここだよと手を上げると、彼女はたったと走って私に近づく。ほら、おみやげ。手渡すと、早速彼女は包装紙を開ける。うさぎとかめかぁ。うん、絵が素敵だったからね。彼女は絵本の中の文言を小さい声で読み上げながらページをめくってゆく。あ、これ好きかも。へぇ。みんな動物たちが笑ってるよね、きっと。そうだね、うん。
日曜日の喫茶店、人の出入りの激しい店の片隅で、私たちは絵本を前にひそひそ話している。

朝の一仕事を終えて私はベランダに出る。一番に目に入ったのはホワイトクリスマス。大きく大きく開いた花が、首を垂らしている。私は慌てて部屋に戻り鋏を持ってきて切ってやる。鼻を近づければふわんと涼やかな香り。思わず声を上げる。起き上がった娘が近づいてきてどうしたのと言う。私は彼女にも花の匂いをかがせてやる。ママ、これ、ミルクとココアにもかがせてあげようよ。いいよ。私は花をコップに生けて、テーブルに置いてやる。娘がそれぞれの手にミルクとココアを乗せて花に近づけると、途端にそっぽを向くミルクとココア。そんなにハムスターたちにとっては苦手な香りなんだろうか。それとも突然すぎてびっくりしたんだろうか。私たちはあまりのはっきりした彼女たちの動作に、思わず笑ってしまう。
ねぇ、ママ、発泡スチロールって電気通すの? 娘が突然訊いて来る。通さないよ。なんだ、つまんない。どうして? 今日理科の実験やるの。電気通すものを持って来なさいって言われてて、玄関に発泡スチロール置いてあったから、どうかなって思ったの。なぁんだ、簡単じゃない、あなたの缶ペンがあるじゃない。え? あれ電気通すの? 多分ね。釘でも通すよ。じゃぁそれ持って行く。
それから私たちは、部屋のいろんな場所で電気の通るものを探し始める。娘はおにぎりを頬張りながら。私は一本煙草をくゆらしながら。

少し早めに玄関を出る。玄関の脇ではアメリカン・ブルーが風に吹かれている。私はしゃがみこみ、覗き込む。挿し木の方はまだ分からないが、根を食われた二本は、新芽をそれぞれ二枚ずつ出している。私はほっとする。これならまた根を伸ばしてくれるかもしれない。そんな気がして。
階段を駆け下り、外へ。相変わらず風が強い。混み合うバスの中、私は身体をぐいぐい押され、扉にほとんど押し付けられるような形になる。避けようと身体を捻ると、さらに押し付けてくる。嫌だ。反射的にそう思った。その時腰に伸びてくる手に自分の手が当たり、気づいたらその手を掴んでいた。手の主と目が合う。私は、絶対この手を離してやるものかと思った。相手はもちろん逃れようと必死になる。だから私は声を上げようとする。声が出ない。悔しかった。だから絶対手を離してやるものかとさらに手に力を込める。
バスが駅前で止まる。下りれば目の前は派出所。私は手を握ったまま引き摺り下ろすようにしてバスを降りる。気配に気づいた隣の男性が、手伝ってくれて、派出所へ。扉を開けた途端、目の前が真っ暗になる。
気づけば派出所の椅子に座っていた。大丈夫ですかと何度も誰かが訊いてくる。大丈夫じゃないです、答えようとして声が出ない。制服を着た警官が私に何度も尋ねてくる。大丈夫ですか。声がやっぱり出ない。もう大丈夫ですよ、痴漢ですね、そこの男性が説明してくれましたよ。さっき派出所に来るのを手助けしてくれた男性が横に立っている。私は一体どうしていたんだろう。思い出せない。
私は手帖に、声が出ません、とボールペンで記す。これから病院に行かなければならないんです。警官が、あれこれ説明してくれる。そして必要事項を記し、私は立ち上がろうとする。立ち上がれない。もう一人の警官がそっと私の手を支えてくれる。思わずふりほどこうとしている自分に愕然としながら、頭を下げる。声が出ない、ただそれだけで、すべてがモノクロームになってゆく。
どのくらい時間が経ってしまったんだろう。慌てて私は時計を見る。ふらふらしながら派出所を出る。何がどうなって、今こうなっているのか、うまく把握ができない。とにかく病院に行かないと。私の中にあるのはそれだけだった。

女性専用車両に乗って病院の最寄り駅へ。世界はモノクローム。声を出そうとしてもうまく声が出ない。今日の診察は筆談になるかもしれない。
引き出しの中に奥深くしまったはずの記憶がすっかり表に出て散らかっている。ワンピースを着ていた。黒いストッキングをはいていた。かつての自分。あの時の自分。すべては一転した。世界は一変した。あの時の出来事が、蘇る。
私は頭を振って、何とかそれを意識から追い出そうと試みる。今そんなことを考えたって何も始まらない。何も変わらない。起きてしまった出来事を消すことはできない、変えることもできない。
私はただ前に進むだけ。

電車を下りれば再び雨の中。雑踏の音が私の鼓膜を激しく揺らす。大丈夫、声もじきに出るようになる。音が聞こえるのだから、声だって出るようになる。世界だって色を取り戻す。ここを越えればまた。
あぁ、そういえば、お礼を言い忘れてしまった。せっかく助けてもらったのに。派出所の隅にひっそりと立っていた男性を思い出す。心の中で、お礼を言う。ありがとう。
そうして私は傘を広げる。病院はもうすぐ。そして明日は搬入日。
今はそれだけを考えて。

外は、雨。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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