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2009年10月15日(木)

午前四時半。まだ外は夜闇の中に沈んでいる。隣で眠る娘が寝がえりをうち、布団をすっかりはいでしまう。私はそれを掛け直し、起き上がる。
昨夜からずっとプリンターは動かしっぱなし。インクを足すようにというランプが点滅し始めている。足元でカラカラとココアが回し車を回す音がする。私は台所に昨日洗って置いておいた葡萄を一粒口に入れ、ベランダに出る。
髪を梳かしながら薔薇の樹を見つめる。切り詰めたのがよかったのだろう、新芽があちこちから顔を出し始めている。まだ縁の赤い初々しい芽。暗闇の中でも何故だろう、その姿をはっきり捉えられる。仄かに発光しているかのように見えるほど、それは瑞々しい。
痛々しいほど傷ついた蕾たちは、それでもまっすぐ天を向いている。全身傷だらけになりながらも凛としたその姿は、ただそれだけでもう私の胸を射る。じっと見つめながら私は、背筋が伸びてゆくのを感じる。

友人と待ち合わせた喫茶店、わずかに私が早く着く。窓の外、空がくるくると様子を変えている。水色の空を見せたかと思えば曇り、曇ったかと思えば再び青空が現れ。まるでそれは猫の目のようで。
やってきた友人と隣り合わせに座りながら、窓に面した席、おしゃべりをする。他愛ない、何処にでもあるようなことを、私たちは次々に言葉にして交わす。あっという間に二時間が過ぎ、私たちは店を出る。
途中で別の店に寄り、必要なものを買い込んで私たちはバスに乗る。目的地は私の家。
そして私たちは作業を始める。二人展に必要な大事な作業だ。彼女からファイルを預かり、ひとつひとつ開いては試し刷りをする。彼女に確認してもらった後保存する。あとは私が時間を見つけては必要な枚数を刷り出すだけにしておかなければならない。
彼女の絵はやわらかい。それはパステルという材質によるところも多分にあるかもしれないが、それ以上に、祈るように描いているとかつて彼女が言っていたその言葉がすべて現れている。対峙していると、心の澱から浮かび上がった澄んだ水を見つめているような気持ちになる。多分その後ろには、幾つもの紅い斑点があったはず。血反吐吐くような思いがあったはず。それらをすべて溶かした上での、上澄み液はだから、彼女の涙のような色合いをしている。
作業を続けながらも、私たちはずっと喋り続けている。あぁでもないこうでもない、あれもあったこれもあった、次々に言葉は溢れ出す。

突然、終わったー!という娘の声が飛んでくる。何が終わったの? ご飯食べるのが終わったの。うん、で、次は? 着替える。うん、その次は? 考えてなーい。
考えてない。私は少々驚く。考えてないなんてことがあり得るのかとこの時初めて知る。それが普通なのだろうか。それとも彼女独特なものなのだろうか。分からない。
私には多分、こういうことが、ない。考えていないことなど多分あり得ない。次は、次は、と、四六時中考えている。
余裕がないのかもしれない、私には。ふと思う。彼女が持つものが余裕だとして、私と彼女とはどこがどう違うのか。どこがどう違って、余裕を持つ余裕を持たないになるのだろうか。知りたい。でも分からない。一体どういう思考回路を持ったら考えないでいられるのだろう。それが分からない。
着替え終わった彼女は、るんるんと鼻歌を歌いながら、廊下を行き来し、そして歯を磨き始める。次に彼女は何をするのだろう。はっきりいって、かなり、気になる。

一通りの作業を終えて、私は友人と歩き出す。朝のうち曇ったりしていた空がすっかり晴れ上がっており。それどころじゃない、陽射しはまるで夏のように強くて。目的地に着いた時には、汗をかいている始末。私と友人は向かい合って座る。窓際の席。それが私たちの定位置。
窓の外の街景は、刻一刻変わってゆく。春の頃にはまだ鉄骨が丸見えだったものが今はガラスも嵌め込まれ、ずんと聳えている。その手前の小さな空き地に、薄が揺れている。そういえば薄もずいぶん見なくなった。昔はあの鋭い葉でよく手を切ったものだった。でもあの葉はとても芯が強く、小舟を作ってどぶ川に流して遊ぶこともできた。開いた穂で作る梟は、ふわふわとやわらかく、触り心地がとてもよかった。今そんなことをして遊ぶ子供はいるのだろうか。薄自体が街で見かけなくなっているのだから、そんな遊びをする子供は殆どいないのだろう。考えてみれば、子供の頃、手や足はいつも傷だらけだった。遊べば擦り傷ができるのは当たり前、バンドエイドなんてものを貼るまでもなく、舐めて終わり、だった。なんだかあの頃が、とても懐かしい。
いつの間にか日が落ち、辺りは黄昏ている。彼女のおなかの虫が動き出し、じゃぁそろそろ、と手を振って別れる。

娘の髪を三つ編みに結っていると、彼女が私に話しかけてくる。今度のバレンタインのチョコは、誰と作るの? うーん、誰とだろう、まだ分からないよ。作りたいものもう決めてるんだよねぇ。もう? 早すぎない? だってあげたい人、決まってるもん。
果たして、今彼女が思い描いている人に彼女がちゃんとチョコを渡すのかどうか、私は知らない。バレンタインデーまでの数ヶ月の間に新たな想い人ができて、その人にさっと渡してしまうのかもしれない。そういえば私は、小学生の頃はあげる方だったが、中学にあがると何故か、チョコをもらう側になったっけ。下級生から、先輩これ!と、小さな花付のチョコをプレゼントされた時には、どういう顔をしていいのかずいぶん困ったものだった。チョコをもらって帰ると、弟に文句を言われた。あのチョコたち、私は最後どうしたのだろう。いつ食べたのだろう。ちゃんとお返ししたんだろうか。全然思い出せない。

朝の時間は実に慌しい。気がつけばもう玄関を出る時間。私たちはそれぞれに窓を閉め、玄関へ急ぐ。ママ、競争だよ!と言いながら娘が駆けて行く。私は自転車でそれを追いかける。小走りでも何でも、走れる彼女の姿を見ることができるのは、ほっとする。
おはよう、おはようございます。集まってくる子供らに声を掛ける。返事が返ってくるのはほんの少数。それでも私はおはようと声を掛ける。俯いていようとそっぽを向いていようと、彼らに声を掛ける。
じゃ、いってらっしゃい。全員が集まったところで送り出す。彼らは学校へ、私は私の場所へ、それぞれに出発だ。

さぁ、今日も一日が始まった。信号が青になる。私は思い切りペダルを踏む。そう、乗り遅れないよう、逃さぬよう、私もめいいっぱい駆けていこう。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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