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2005年12月10日(土)

 別に何も特別なことなどなく、用事を済ますために外出し、用事を済ますために駅に行き電車に乗り、用事を済ますために人ごみにまみれ。
 そして気づいた。
 黒い人影すべてが、加害者の影に重なって、だぶって見える。
 この感覚は、被害に遭ってから五年以上の間、さんざん悩まされた感覚と酷似していた。何故、なんで今頃また? そう思いかけて、はたと気づいた。そうか、ついこの間私はその人に会ったのだった、今見えるのはその時私の目の前に現れた影だ、と。そして、笑い出してしまった、ひとり、人ごみの中で。
 多分、とても滑稽に違いない、周囲の人たちから見たら今の自分の様子はおかしく思われているに違いない、そう思えて、私は慌てて携帯電話に手を伸ばす。電車の中だったけれど、そんなことに今構っていられないと思ってダイヤルを回す。
 仕事の最中だというのに、彼女はすぐ私の電話に出てくれ、ちょっと待っててと電話を繋げていてくれた。つい昨日、彼女がどれほど今忙しいかを知らされていたにも関わらず電話をかけた私に、彼女は何も言わず、大丈夫と声をかけてくれる。私は思わずその彼女に甘えてしまった。怒涛のように自分の内奥から溢れ出てくる奇妙奇天烈な嘲笑を、彼女に吐露し、へたりこんだ。彼女が電話の向こうで言う、私もそうだったよ、うん、分かるよ、大丈夫? 今あなたがそうなってしまうのは当たり前だよ、おかしくないよ、いつでも電話して、遠慮なんかしないで、大丈夫だから、ね! 私は、そんな彼女の声に必死に耳をくっつけていた。電車がトンネルの中に入ってしまうまで、私はそうやって彼女にすがっていた。
 その後さらに済ませなければならない用事のために、私は人ごみに再び分け入ってゆく。ぐらぐらと揺れる視界。だめだ、どうしよう、このままじゃ倒れる、そう思ったとき、突然私の耳の奥から響いてきたものがあった。娘の、歌声だった。
 「アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さぁ踊りましょ ランラララランランランラン ランラララランランラン ランラララランランランラン ランランランランラン・・・」。彼女が新しく保育園で覚えてきて、その三番の歌詞が気に入って、最近は四六時中この歌を歌っていた。その声が、今、聴こえる。
 「・・・おーばけやしきで ひるねをすれば ひのたまこぞうが あちちのち あちちのあちちち あちちのあちち あちちのあちちち あちちのち!」。彼女が先生から教わってきたこの三番の歌詞は、もともとのアメリカ民謡の歌詞にはない。だから、ママしらない、びっくり、と声を上げたら、彼女は思い切りにかっと笑って、ママ知らないの? だめじゃーん! と言ったのだった。そして、繰り返し繰り返し、歌ってくれたのだった。
 気づいたら、私は、小さな声で、耳の奥から響いてくる、記憶の中から響いてくる彼女の歌声に合わせて歌っていた。繰り返し繰り返し、歌っていた。
 その最中にも、時折、津波のような発作が地の底からぐわんと襲ってくる。私はそのたび、こぶしを握り締めたり開いたりし、ぶるぶる身体が震えだすのを何とかなだめ、そして、歌った。それでもどうしようもなくなって咄嗟に頓服を口に放り込む。こんなの効きやしないかもしれない、けど、何もしないよりマシだ、今はとにかくここを乗り切らなきゃ、私は必死に自分に言い聞かせた。そしてまた歌った。すれ違う人全てが怖い、あのときみたいに唐突に襲われそうで怖い、そんな恐怖がひたひたと私にくっついてきた。だから私はまた歌った。歌って歌って歌って、そして歩いた。
 あの角を曲がれば、大通りへ。あそこの通りは銀杏並木で、広い広い道の両側に高い高い銀杏が並んでいる。私は思わず小走りになって角を曲がる。そして。
 私の両目に飛び込んできたのは、さんざめく黄色い黄色い銀杏の葉と、太く黒い幹に光る幾千幾億もの小さい灯りたちだった。あぁ。思わず私は声を漏らす。歌が途切れる。あぁ、これをみうに見せたら、娘に見せたら、きっと飛び跳ねて喜ぶに違いない。そう思った瞬間、ぽろぽろと涙が零れてきた。でもそれは。哀しくて辛い涙じゃなかった。嬉しくて切ない涙だった。
 みう、ママはあなたのこと間違いなく愛してる、確かに愛してる、こんなにも愛してる。あなたが笑っていてくれるなら、私は何だってできる。
 膝から力がかくんと抜けて、私は思わずよろける。近くのベンチによりかかり、私はもう一度、この光景を見つめる。
 みう、今度ここに一緒に来よう、夜出歩くのは苦手だけれど、でも、あなたと一緒にここに来よう、そして、二人できっとこの光景を眺めようね、心の中で、そんなことを呟いた。彼女の気配が私のうなじの辺りでふわりと匂った。私は目を閉じ、しばらくその気配に耳を澄ました。大丈夫、私は大丈夫、さぁ家に帰ろう。
 残り半分の道のりを、私はそうして歩き出した。もちろん、アルプス一万尺を小さい声で歌いながら。

 加害者と会うということは、こういうことを引き起こす可能性があることを、私は知っていた筈だった。覚悟していた筈だった。でも。こんなにも明らかに現れ出ることまでは、多分、覚悟していなかった。
 もしかしたら、これからまた何年か、この感覚に私は悩まされるのかもしれない。それほどに、今、私の中に加害者の影は、改めて明らかに現れてきてしまった。あの時目の前に存在した加害者が、今この瞬間にもありありと、まるで今ここにいるかのように思い出されてしまう。
 それでも。
 何故だろう、あの日のあの機会を、後悔する気持ちは、私の中には無いのだった。不思議だ。どうしてだろう。こんなにも今しんどいのに。こんなにも今辛いのに、それでも、あのことを後悔する気持ちにはならない。全ての人に、こんな機会が必要だとは私は思わないし、逆に、そんな機会を経ない方がいい場合の方が多いとむしろ思っている。けれど、多分私には、必要なことだったのだろう。これから何年かの間、またああした感覚に四六時中悩まされ、日常生活がまたぐらりと揺らぐとしても。きっとその先に、そうしたトンネルを抜けた先に、私が得たい何かが、あるのかも、しれない。
 ようやく辿り着いた玄関の鍵を開け、部屋に入る。この週末は、娘は実家に泊まりにいっている。私はひとりで、幾つかの仕事をこなさなければならない。展覧会の会場にもせめて何時間かは顔を出したい。でもそのためにはまた、人ごみにまみれなければならない。そしてそれは、多分、また、私に襲い掛かってくるに違いない。でも。
 それもまた、一興。私は、ミルクパンで牛乳を温め、濃いめのミルクティを作る。最後にシナモンをひとふりして、そのマグカップを両手で抱え、いつもの窓際の椅子に座る。そして、また、アルプス一万尺を歌ってみる。三番の、娘が教えてくれた歌詞を歌いながら、私は思わずぷっと吹き出してしまう。お化け屋敷で昼寝をすれば、なんて歌詞、一体誰が考え出したんだろう。しかも、火の玉小僧があちちのち、だなんて、なんて洒落たこと考え付く人なのかしら。

 ミルクティを一口。ああ、あったかい、な。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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