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2010年01月21日(木)

まだ灯りを点けない部屋の中、ミルクたちの小屋に近付く。するとちょうどミルクもココアもゴロも餌箱に張り付いている最中で。私は思わず笑ってしまう。そして声を掛ける。おはよう。彼女らは一心に餌を頬張っている。
窓を開けて驚く。雨が降っていたのか。いつの間に降っていたのだろう。全く気づかなかった。窓を開けると、思った以上にぬるい空気がぷわんと私を包み込む。しっとりと濡れた空気。街はまだまだ雨の気配を残しており。通りを見下ろせば、黒光りするアスファルト。
私は空を見上げてみる。じっと見つめる。ぐいぐいと流れてゆく雨雲。西の空にはぽっかり穴さえ開いており。あぁ今日一日降っているというわけではないのだな、と納得する。この雨は、もしかしたらあの子の涙雨だったのかもしれない。そんなことを、思う。
テーブルの中央のホワイトクリスマスの花弁、外側が少しずつ乾いてきた。乾いて微妙な皺が現れ出した。花の芯はまだ見えるわけではないけれども、花は確実に終わりが近づいてきているのだなと私は知る。
窓を開けたまま、私は洗面所にゆき顔を洗う。水までもがぬるい。ぬるい水でばしゃばしゃと洗う。でも何だろう、どうもすっきりしない。やっぱりこの、水の温度のせいだろうか。
お湯を沸かし、紅茶を入れる。黄金色がふわりと硝子のカップの中、広がってゆく。そこにコーディアルのエキスを入れて軽くかき混ぜれば出来上がり。私はそれをゆっくりと口に含む。どこかレモンティを思わせる味。ほんのり甘い。

友人と待ち合わせて西荻窪へ。そこのどんぐり舎という喫茶店に二人展のDMを置いてもらえることになったため、早速出かける。この縁は書簡集で得たもの。書簡集での展示を見てくださったどんぐり舎の店員さんの御厚意だ。本当にありがたい。
扉を開けると鳴るからんからんという鈴の音。私たちは窓際の席に座る。あたたかな日差しがテーブルに降り注いでおり、私たちはもうそれだけでほっくりした気持ちになる。
注文した珈琲は、酸味がほとんどない、私にとっては格好の味で。一口一口、楽しんで飲んでゆく。友人の話を聴きながら一口、返事をしながら一口。
数日前から、友人は全く食欲をなくしている。いつも私より早く、まさにあっという間にご飯を食べてしまう彼女が、何を頼んでも、一口も口に入らないといったふうにスプーンを持て余している。なんとかして彼女に、一口でもいいから何か食べてほしいと私は頭をひねってみるのだが、それでも彼女は食べることができない。
心がいっぱいになってしまっているのだ、今。心がいっぱいで、ぎりぎりで、だからもう何も入ってくれないのだ。痛いほどそれが伝わってくる。
眠りを誘うほどにあたたかな日差しの中、だから私たちは話し続ける。そうして吐きだせるなら吐きだしてしまえ。私はそう思いながら、彼女の話に耳を傾ける。

夜、その友人からメールが届く。今日はごめんなさい、反省してます、と書いてある。だから私は返事を返す。何を反省するの? 弱音を吐ける場所ではいくらだって弱音を吐いていいんだよ、と。
そうして思う。私にはそういう場所が一体幾つあったろう、と。
あの事件に遭い、病んでゆく私から、離れてゆく人たち。そういう人たちの中に、残ってくれる人も、いた。その、残ってくれた僅かな友人たちが、私をどれだけ支え助けてきてくれたろう。
私の叫びに耳を傾け、私の嘆きに耳を傾け、私の罵りに耳を傾け、私が泣いても暴れてもどうやっても、つかず離れずそばにいてくれた友人たちが在た。間違いなく、在た。
そのおかげで、私は今こうしてここに在る。

落ち込めるなら、そのときはとことん落ち込めばいい。落ち込むだけ落ち込ん
で、そうして、落ち込みきったなら、次は這い上がってくればいい。
這い上がってきたときに、ありがとうね、と、笑顔を見せることができれば、それでいい。
私は、友人たちから多分、そう教わった。別に、言葉に出してそう云われたというわけではない。云われたことは、ない。でも。
多分友人たちはそうやって、私を見守ってきてくれた。そのおかげで今の私が在る。
だから、私は心の中、もう多分酔っ払ってベッドの中眠っているはずの彼女に話しかける。いいんだよ、落ち込めるときは落ち込めば。落ち込むだけ落ち込んだら、這い上がってきてね。待っているよ。

こんにちは、ありがとう、ごめんなさい。
言葉なんて、本当にシンプルで。多分この三つがあれば、たいていのことはやっていける。その言葉たちを忘れなければ、ちゃんと使えたなら、多分ほとんどのこと、越えてゆける。
シンプルだから、だからこそ、丁寧に使いたいと思う。気持ちを込めて使いたいと思う。心をこめて。

ママ、家に帰ってきたらね、ミルク、小屋の外に丸くなって、小さくなって寝てた。きっと反省したんだよ。そうなの? うん、きっとそうだよ。だからね、仲直りすることにしたの。そっか、よかったねぇ。うん、もう大丈夫だよ、きっと。
娘はそう云って、ミルクのクリーム色の背中を丁寧に撫でている。ミルクもおとなしく、為されるままになっている。

雨雲は途切れたりくっついたりしながら、流れてゆく。バスも通りを行き交い始めた。まだ濡れたアスファルトが、黒く光っている。
娘が朝から、昔々録画したテレビドラマを見ている。それは子供のいる夫婦の、離婚をめぐる話で。朝からこんな番組よく見ることができるなぁと私は半ば感心して彼女を眺めている。すると突然、彼女が云った。
ねぇママ、ママはどうやって離婚したの? ど、どうやってって? どうやって別れたの? うーん、どうやって…。そうだなぁ。うーん。
私が返答に困っているうちに、娘は再びテレビに夢中になっている。私は改めて、どうやって別れたのかを思い返す。そして小さく苦笑する。

じゃぁママ今日行くね。あ、ちょっと待って。そうして娘がココアを連れてやってくる。はいはい、ココア、行ってくるね。私はココアにも声を掛ける。
玄関を出ると、さらにぬるくなった空気が私を包む。陽光はまだ見えない。雲は空全体を今では覆っており。でもその雲はぐいぐいと流れゆく。こんな日は手袋なんていらない。素手でハンドルを握り、自転車を漕ぎ出す。氷の張っていない池はしんと静まり返り、流れゆく雲の様をありありと映し出す。豆腐屋の前、鳩と雀が集っている。青信号になった大通りを二本、一気に渡り高架下を潜って埋立地へ。この辺りにもずいぶん、通勤の人の姿が多くなった。
湿り気を帯びた風が私の髪を揺らして流れ去ってゆく。港のずっと奥の方、風車が回っている姿が微かに見える。
さぁ今日もまた一日が始まる。私はペダルを漕ぐ足に一層、力を込める。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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