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2005年04月05日(火)

 玄関を開けて前を見やると、以前住んでいた場所が向こうに見える。そのすぐそばにある公園は、この頃毎日毎日、色が変わる。公園に植えられた幾つもの樹々が、今まさに新芽を開かせている最中なのだろうなと思う。それまで枝の一部としか見えなかった部分が膨らみ、それが赤くなり、やがて萌黄色の葉となって開く。今はちょうど、焦茶色と薄黄色が混じったような色、あと数日もすればきっと、その色は黄色がかった緑に変わるはず。いつもなら、樹々の新芽が開く前に桜の花がぱあっと開く。そうすると、まだ乾いた樹々を押しのけて、薄桃色に一面が覆われる。でも、今年は桜の花がなかなか開かない。だから、桜の花の色よりも先に、周囲の樹々の色がどんどん変化を始めている。この分だと、萌黄色の合間合間に、桃色が揺れるという具合になるのだろう。いつもと違う春の始まり。
 娘を保育園に送り届け、私はそのまま仕事場へ自転車を走らせる。朝一番から忙しそうな肉屋や花屋の前を通り抜け、このまま真っ直ぐ行けば一番早く仕事場に着けるのに、私はちょっと遠回りをして、川沿いの道を走る。川沿いに並ぶ桜の樹々は、今朝のあたたかな日差しを受けてまるで発光しているかのように見える。薄い薄い桃色の光。見上げると、空の薄水色に映えて、一層輝くその花の色。
 最近、ここに詰所ができた。売春宿が立ち並ぶその角っこに立つ詰所には警察官が常駐している。もうこの場所が閉まったままになってどのくらい経っただろう。あれほどこの通りに溢れていた女たちの匂いは、もう消えてしまった。彼女らは一体何処に消えたのか。これで本当に良いのかどうか、私には分からない。以前彼女らのうちの一人が呟いていた言葉がまた思い出される。男なんて欲望で生きているようなものよ、その男の暴力的な欲望を満たしてあげているのがこの場所なのよ。もし私たちがいなかったら、この街でもっともっとたくさん、強姦事件やら何やらが起きているはずよ。
 彼女はもしかしたら、単に、自分を正当化したかっただけなのかもしれない。でも、強姦という暴力が、被害者のその後の人生をどれほど左右してしまうのかを実際に体験している者の一人として、私は、彼女の吐いた言葉をさらりと聞き流すことはできなかった。だから今もこの胸にはっきりと刻まれているんだと思う。私は詰所のすぐ脇を通り抜けながら、人間特有の性的欲望、暴発しかねないその欲望は、これからどうやって処理されてゆくのだろうと、そんなことを思う。もちろん、この場所があったって、強姦という犯罪は繰り返されていた。けれど、ここで一部の人間たちのそうした欲望が処理されていたというのもまた、紛れもない事実だと、私には思える。
 機械的に仕事をこなしてゆく。あっという間に時間が過ぎてゆく。東の空にあった太陽は南の空高く、そして西の空へと動き続けている。開けた窓から滑り込んでくる風は、少し肌寒くも感じられるけれども、それでも間違いなく、これは春の風。ついこの間までなら凍えるだけだった風が、気持ちいいと感じられるほどに変化している。その風に乗って、街のざわめきが時々、耳に届く。
 夕方の帰り道、私はまた少し遠回りをしてみる。海からまっすぐに続く道。この辺りから急な坂道を描くその道を、私はえっちらおっちら自転車を押して上る。そして辿り着いたのは、私が大好きだった樹が立つ場所。
 その手前、銀杏やけやきが立つ場所に設けられたベンチに座る。ひんやりとした石の温度が身体に伝わるけれど、それは妙に心地よい加減で、私の体の奥へと染み込んでくる。そして私は真正面の樹を見つめる。枝が切られ、太い太い幹も半分にまで切り落とされてしまった樹。けれど、彼は決して、生きることを諦めていないのだ。短い胴体から懸命にか細い枝を伸ばし、その枝は今、濃緑色の葉がこれでもかというほど茂っている。前の姿を知らなかったら、私は今のこの樹を見つめることはなかっただろうと思うほど、姿は変わり果てている。けれど。
 生きようとする力とは、なんて強大な力なのだろう。病を越えて、生死の淵を越えて、樹は何処までも生きようとする。枝をいくら払われようと、その身をいくら削られようと、生きる本能を決して失わない。そんな姿をこうして見つめていると、彼のその生のエネルギーが、私にまでじんじんと伝わって来る錯覚を覚える。見つめるほどに私の両目は樹に吸い寄せられ、細い道を隔てて向き合っているというのに、いつのまにか樹は私の目の前に、手を伸ばしたら私の手は容易に幹に触れられるほどの近くにやってきている気がしてくる。だから私は、心の中で両手を伸ばし、幹に触れる。そしてそっと抱き寄せてみる。樹の呼吸する音が私の耳の奥の奥から響いて来る。それは外側から伝わるのではなく、私の内から涌き出るような、そんな音。
 この樹が元の姿にまで戻るには、いや、元の姿も越えて大きく大きく伸びるには、一体何年かかるのか、私には分からない。もしかしたら私が老婆になる頃になっても、樹はこんなふうに小さいままかもしれない。私が愛してやまない彼の姿を再び見ることは、もしかしたら叶わないのかもしれない。それでも、私はこの樹を求めてやまない。彼の存在が、一時期どれほどに私を支えていてくれたのか、それはどんなに時を経ても色褪せることなく、私の中にしかと刻まれているのだから。
 いつのまにか娘を迎えにゆく時間がやって来た。私は自転車を走らせる。そして今度は娘を後ろに乗せて長い坂道を上る。上りきった交差点で私たちが止まると、真正面に燃える太陽。娘と二人でうわぁと声を上げる。みう、燃えてるね、太陽。今触ったらきっとあっついね。うん、火傷しちゃうかもしれないね。ママ、じっと見てたら目が変になってきた。ママも変になってきた。目の中で虹が回ってるよ。虹? いいなぁ、ママの目の中にも虹が欲しい。じゃぁみうのあげようか? え? くれるの? いいよ。
 そうして私たちは家に辿り着き、いつものように食事をし、いつものように風呂で遊び、いつものように歌を歌って眠る。今娘の寝息に時々耳を澄ましながら、私はいつものように椅子に座っている。もちろん窓も半分開いている。今夜、夜空をじっと見つめると、小さい小さい、針の先よりも小さいかと思えるほどの星が、ちらちらと瞬いている。目をそのまま街景に下ろすと、方々の家の明かりが消えた後の街が淡々と私の目の前に広がっている。静まり返る街、あとは通りを行き交う車の音が時折聞こえてくるだけ。
 そして街灯が今夜も、しんしんと燃えている。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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