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2007年11月06日(火)

今日、珍しく夕刻テレビをつけていた。
私の机の隣にテレビがあるので、実際には音声しか聞こえていない。
そしてふとした言葉に、耳が止まった。
「女性は自分の身を自分で守ることを意識し始めたようです…(映像まじえて説明)…
自分の身は自分で守る、それが被害者にならないための第一歩なのかもしれません」
といったような内容のことを、アナウンサーが最後締めくくっていた。

これを聞いて一刻でも腹を立てるのは、私だけだろうか。
私は、自分の身を自分で守ることができなかったから被害者になったのか?
違う。
自分の身を自分で守る意識がなかったから被害者になったのか?
それも違う。

実際、そのアナウンサーも、常にかばんの中に催涙スプレーを入れているそうだが、いざというときそれをぱっと使えるかどうか自信が無いようなことをコメントしていた。

私はさっさとテレビを消すことにした。
そしてしばし、物思いに耽った。

デートレイプなるものもある。それでも被害は被害なのだ。

先日、友人が、調べものをしていた。
性犯罪被害者を応援するために何ができるだろう、と。
でも、
表立って動こうとすると、世間の目は、いまだにおびえている。
見たくないものを見るような目で見る現実。

たとえば強姦には、拉致監禁もつきものだったりする。
拉致監禁なら同情されて、性犯罪なら汚らわしい怖ろしいと避けられるべきとでもいうのか?
違うだろ。
同じだろ。
犯罪は犯罪じゃないか。

そういうことが、我が身にふりかからなければいい、ふりかからないはず、
ふりかかるわけがない、世間はそう思っているのだろうか。

残念ながら違う。
人間が人間である限り、犯罪はなくならないし、
犯罪がなくならないということは、その一部を担う性犯罪もなくならない、ということだ。

今ふと思った。
なぜ性犯罪にだけ「性」犯罪と名づけられているのだろう。
犯罪というレベルでは同じじゃないか。
単なる犯罪被害者じゃだめなのか?

うまく思考がまとまらない。
が、一瞬、私は腹を立てた、そのことは変わらない。
怒りを覚えた。

でもそれは一瞬のことで、その一瞬後、私には静寂が訪れた。
別に、このニュースに悪意があったわけではない。むしろ、良いこととして報道されていたはず。私がこう反応するのは、私の被害者感情が過敏に反応しすぎて逆撫でされたからに違いない。
私の持っている被害者感情というのも、或る意味、くだらないものなのかもしれない。

しかし、恐らく、一生私につきまとう感情だろう。仕方ない。
なら、被害者になったことのない人から見たらこういうニュースがよきものとして流されるその基準も、当然のはず。

やめよう。
自分の感情をコントロールできるくらいには、私も時間を経ているはず。
もう十何年経った?

そのとき、玄関で娘の呼ぶ声がした。
私は自分の心の一部にしっかり蓋をして、娘を出迎えた。
折り合いをつけてゆくしかない。つけてゆけるようになろう。すぐにはできなくても、でも、でもいつか、そうなりたい。
諦めにも似た何かを感じつつ、私はそう思った。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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