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2009年10月22日(木)

二重のカラカラという音が途切れ途切れ耳に滑り込む。カラ、ラという音がミルク、カラカララと速い音がココア。それぞれに違う。眠りの中、あぁまたココアが、今度はミルクが、と音を辿る。そして娘の蹴りで目が覚める。今日は脇腹に。彼女はといえば90度回転して眠っている。
一番に玄関を開ける。まだ誰もいない校庭。水が張ったままのプール。しんしんと静まり返っている。そしてその向こうには夜明けの気配。まだ紺色の天辺と、燃える橙の地平と。そして交わり揺らぐ色合いと。決して名前など付けられないその色味は、私の目の中、刻一刻、変化してゆく。
一旦部屋に戻り、顔を洗う。そして櫛を持ったまま再び玄関を出る。そろそろだ、空が割れるのは。待ちながら髪を梳く。風と呼ぶには拙い微風が私の耳元をくすぐる。赤く白く燃え始めるビル群。そして今。
日が昇る。アメリカン・ブルーはただじっと、その光を浴びている。

もし娘が強姦された上に殺され、棄てられたとしたら。それは生きている以上、この世界に生きている以上、在り得ないことではない。私はどうするんだろう。もしその犯人を見つけ出したら私はどうするんだろう。どこまでそれを受け容れてゆけるんだろう。そしてその後どうやって、生きていくんだろう。
自分が強姦された時、私の中に一番最初に浮かんだのは罪悪感だった。こんなことになってしまった、そのことに対する罪悪感だった。こんなことになってしまったのは自分のせいに違いない、自分がいけないに違いない、自分がいけないからこんな目に遭ったに違いない、そう思って、私はひたすら自分を責めた。自分を責めるほかに、何もできなかった。そうして心を病んでいった。
でも。もし自分ではない自分の愛する者が、同じ目に遭ったとしたら。私は怒り狂うだろう。呆然とし、でも直後、怒り狂うだろう。誰がこの子をこんな目に遭わせたのか、一体誰がどうやったらこの人をこんな目に遭わせることができたのか、と、怒り狂い、猛り狂うだろう。大きな大きな、虚無感を抱えつつ。
それでも。私は生きていかねばならない。死ぬこともできるかもしれないが、今の私に死ぬという選択肢はない。だとしたら生きていくしかない。何処までも何処までも生き残る。それが私にできる唯一のこと。その、生き残った時間を、私はどうやって、何に費やすのだろう。
復讐に費やすのだろうか。それとも全てを受け容れることに費やすのだろうか。
娘だったら? もし逆の立場だったら娘は、どうするんだろう?
祈るように思うのは。もし私が何処かで殺されることがあるなら、娘には生きて欲しいと思う。生き残ってほしいと思う。何処までも何処までも生き残って、私を越えていってほしいと思う。思いながら、身勝手だなと思う。生き残らされた者の辛さがどれほどのものか、私は少なくとも多少、知っているはずなのに。それでも生きてくれと願うのは、なんて我侭なんだろうと思う。それでも。
生きてほしいのだ。生き残っていってほしいのだ。命果てるまで。
でもそれには、全てのことを受け容れてゆくことが必要になるのかもしれない。それがどれほどの労力を費やすものか、計り知れない。実際私はまだ、全てを受け容れたなんて言えない。ほんの欠片、ひとかけら、受け容れたに過ぎない。自分が強姦されたという事実を受け容れた、まだそこで止まっている。加害者に対する思いは、まだ凍りついたままだ。でも。
どうせ生き残るなら。復讐に費やすよりも、受け容れていきたい。そうは思っている。どうせ生き残ってゆくなら、残った時間をめいいっぱい呼吸し抱きしめて生きていきたいと思う。精一杯生きた、と、死ぬ時に笑って言えるくらいに、生きたいと思う。
だから。娘よ。
そんなことがおまえの身の上に起きた時。それでも私は生きていこう。おまえのことをしっかり胸に抱きながら、それでも私は生きていこう。だからおまえも、できることなら。できることなら、私の身の上にそんなことが起きたとしても、生き残っていってほしい。そして与えられた時間を精一杯、生き抜いてほしい。
死ぬな。生きろ。
それが、多分、今私があなたに贈ることができる、唯一の言葉だ。

朝からプリンターをフル稼働させる。次々にデータを送り出す。それは単調な作業だ。単調な作業だけれど、これを為さなければ、次には進まない。インク不足のランプが次々点滅する。そのたび私は椅子に上がってインクを交換する。
おはよう。娘の声がする。おはよう。私も返事をする。娘がおにぎりを食べ始めるのを確かめて、私は如雨露に水を汲んでベランダに出る。次々新芽を出し始めた薔薇に、丁寧に水をやる。この時期に花が咲かないのは寂しいけれど、でも、また来年がある。この新芽たちが冬を越え、春を迎え、そうしたらまた、蕾をつけてくれるに違いない。唯一今膨らんで、もうすぐ咲きそうなホワイトクリスマスとマリリン・モンローの蕾が、東からの陽光を受けてきらきらと輝いている。花が咲いたら早速切り詰めてやろう。きっと彼らも疲れ始めているに違いない。よく頑張ったよ、夏を越え、台風を越えて花を今咲かせようというのだから。
アメリカン・ブルーにも水を。私は如雨露に水を汲み直し、玄関を出る。もう東の空はすっかり落ち着いた色合いになっている。発光する太陽は、どんどん高みに昇ってゆく。私は太陽を背にしながら、水をやる。無残な姿を見せている今だけれど、きっとここを越えてくれるに違いない。そう信じて、私は水をやる。

信じるものが崩れ堕ちるのは、一瞬だ。ほんの一瞬でそれは、無残に崩れ堕ちる。一方、それを再び立て直す、これには膨大な時間がかかる。
それまで築いてきたもの、信じてきたもの、愛してきたものが崩れ堕ちる。そこからまた這い上がる。這い上がるこの作業の、なんと重たいことか。それでも。
私たちは這い上がるんだ。死ぬその瞬間まで、這いずってでも生きるんだ。それが、生を受けた者の、唯一できることだから。

受け容れること。受け容れてゆくこと。生き残ってゆくこと。生きてゆくこと。

ママ、時間だよ、と娘が言うのと、ほら、時間だよ、と私が言うのと、殆ど同時だった。私たちは駆けながら玄関を飛び出す。階段を駆け下りれば、集合場所まであと50メートル。ママ、隣のクラス、今日から学級閉鎖だよ。そうなんだってね。遊びにもいけないんだって。外出ちゃいけないんだって。やだねぇ、ほんと。そう話す娘の格好は、ノースリーブに半ズボン。今年もまた、彼女は友達と、半袖同盟でも作るのだろうか。
それじゃぁね、じゃぁねー! 手を振って別れる。彼女は学校へ、私は私の場所へ。
今、陽光が私の目を射る。虹色の環が私の目の中に生まれる。その目のまま、私は自転車のペダルを漕ぐ足に力を込める。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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