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2006年01月22日(日)

 明日は広い範囲で雪が降るでしょう、という天気予報の通りに、夜半頃からさやさやと雪が降り出す。闇の中、そのさやさやはうっすらと発光しながら、くるくると風や空と戯れていた。
 そうして今は朝の六時過ぎ。気づけば町の屋根はみなこんもりと雪に覆われ、空はうっとりするほど深い灰色の中にあった。
 昨日はそうして一日雪が降り続いた。私は雪が好きだ。世界の輪郭の中でも、特にきつく苦々しいものをすっぽり隠してしまう。だから、雪に覆われた世界の中にいると、自分までもが何処か柔らかく、やさしい存在になれたような錯覚を覚える。すると、空から舞い降りてくる雪が髪に触れ、肩に触れ、手のひらに触れ、ただそうしているだけでもう、充分な気がする。
 今はもう日曜の午後。ベランダから身を乗り出して外を見やれば、車の通りからはすっかり雪の姿は消えてしまった。でも、全ての屋根はまだ白く、沈黙に覆われている。雲に覆われた空も沈黙すれば、屋根という屋根もみな、沈黙している。
 省みると、先週は慌しい一週間だった。いや、年末からそうだったのかもしれない。怒涛のようにリストカットの嵐が襲って来、家と病院を毎日のように往復、金は飛ぶわ気力は萎えるわ、そうしている間に時間がどんどん過ぎていった。両腕が包帯に覆われていたのだけれども、眠っているとこの包帯を私は無意識にむしりとってしまうらしく、朝起きるといつでも、傷口がばっくりと目の前にあった。そして娘に包帯の先を押さえてもらい、えっちらおっちら腕に巻くのだった。
 そして。
 私は自分が少しずつ、緊張してきているのを感じ始めていた。そう、今年もその日が巡ってくるのだ。これで何回目? 何回目のその日? もう数えるのにも草臥れた。草臥れたけれども、それがその日だということは記憶から消去されない。身体が勝手に覚えており、私はそのせいで、背中ががちがちに凍るのだった。
 匂い、感触、そういったものを、身体が記憶している。意識が記憶しているのではない、身体が記憶しているのだ。そのために、意識では大丈夫だと思っているのに、身体が勝手に反応を示す。そして自分自身愕然とさせられるのだ。
 そんなあの日が近づいていて、身体が緊張しているせいなのかもしれないが、この頃、殆ど四六時中といっていいほどの度合いで、私の頭の中で勝手に声がする。たとえばTと話をしている。TとAについて話をしているのに、私の口は確かにAについて会話しているのに、同時に私の頭の中ではTとBについて話をしていることになっているのだ。私の中でTとBについての会話がどんどん進んでゆく。私の外でTとAについての会話がどんどん進んでゆく。気づくと私は、AとBとが混濁する川をあっぷあっぷしている状態になっており、思わず聴いてしまうのだ。ねぇ、今Bについて話してたんだよね?Bのこれって何のことだっけ?と。するとTは驚いて、「今話してたのはAについてでしょう? Bについてなんて一言も話してないよ」と言うのだった。
 こんな事態が、よほど親しい間柄で為されるだけならいい。たとえば営業先などでこういう事態に陥ると、とんでもないことになる。笑って誤魔化すなんて芸当は、通用しなくなることが多々ある。それでも、私はそういう自分とつきあっていかなければならない。そういう自分も抱えて、ぽりぽり頭をかいて、失礼しましたと苦笑しすたこらさっさとその場を後にするのだ。そして安全な自分の部屋に戻ってから、爆発しそうな心臓を撫でさすり、時に零れ落ちる涙をぐいと腕で吹き飛ばすのだ。
 娘と友と三人で少し、外を散歩する。歩きながら、えいやっと雪球を投げ合う。娘のお尻めがけてぽいっ。娘も負けじと友の胸元めがけてぽいっ。転ぶなよ、と声を掛け合いながら、きゃぁきゃぁひゃぁひゃぁ。脇の道では玄関先の雪をかくご老人。銭湯のおじさんがゆっくりした動作でのれんをかけている。もうじき夕方。
 数えようとは思わないのに、頭の何処かが勝手に数を数えている。あと何日。あの日まであと何日。
 私はもう、それを止める手を解き、好きにさせることにする。数えようと数えまいと、所詮その日はいずれやってくるのだし、その日になってみなければ、今の自分がどうなるかどんな反応が出てしまうのかなど分かるわけはないのだし。こうやって一歩一歩、歩いてゆくしか術はない。
 雪の上を一歩。きゅっ。私が踏みしめた雪が音を立てる。雪の上をもう一歩。ぎゅっ。また雪が私の足の下で音を立てる。きゅっ、ぎゅっ、きゅっ、ぎゅっ。転んだら転んだでいいさ、立ち上がればいいだけなのだから。
 振り向けば、娘の鼻の頭が丸く赤く染まってる。家に帰ったらあったかいお茶を入れよう。私はまた一歩、足を踏み出す。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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