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2005年09月06日(火)

 台風が少しずつそれてゆく。テレビから流れる天気予報の画面がそれを教える。私はその画面を見つめる。見つめながら、実はその映像のたったひとつも、私の心に反映されることなくただただそれてゆくのを感じている。
 テーブルに頬杖つきながらぼんやりと幾つかの時間を過ごす。そんな時私のすぐそばに在る音はいつでも、風の音だ。たとえば今風は、窓をノックするような音を立て、同時に波に乗るかのような勢いで遠近両方の音を立てている。私は立ち上がり、窓を開ける。伸ばした髪と戯れるかのように私の身体にぶつかってくる風。プランターの薔薇の樹々たちは時折、折れてしまうのではないかと思うほどにしなる。そうさせる元凶はこの風だ。私は宙に手を伸ばす。街路樹の葉擦れの音に混じって、伸ばした私の手を嬲る音。この風をもしつかむことができたら、などと想像する私を蹴散らして、右から左、左から右へと絶え間なく風は暴れ続ける。
 昨夜、親しい友と電話越しに話す。私がまだ制服を着ていた頃の姿を知っている数少ない友のひとりと。その日の病院でのやりとりを告白し、そして私は思い切って友に尋ねてみる。「どうして先生は今になって腕をこれ以上切ってはだめだって言うんだろう。これまでそんなこと、一度だって先生は言ったことなかったのに。どうしてもうこれ以上切ってはだめだなんて…」。それは朝診察を受けてからずっと、私の中にあったひとつの疑問だった。友が答える。「それは、もう先生から見た許容範囲の一線をあなたが越えてしまったからじゃぁないのか」と。「一線って何?」「自分は先生じゃぁないから本当のところは分からないけれど。でも、あなたが越えてはならない一線を越えそうになってるって先生は思ったからじゃあないの?」「…」。そして重ねて友が言う、危ない方へ戻ってこれないような方へと君は足を踏み出しかけていると感じられるからじゃないのか、と。
 電話を切った後、私は娘の隣に横になる。娘の寝顔をじっと見守る。彼女の寝顔は今すぐにでも抱きしめてキスをしたいくらいいとおしい。彼女を起こしてしまおうと何だろうと構わないと腕を伸ばし思い切りぎゅっと抱きしめたい、そう私に思わせる。そして、私は、あまりにも矛盾した自分の内奥に、はたと立ち止まる。
 いとおしくていとおしくてたまらない娘のためなら、私は生きていける。いや、娘のためなんかじゃない、私は自分で生きていたいとそう思う。でも同時に、もう、生きているという状態そのものに疲れ果てている自分も、存在している。何もかもを放棄して向こう側へと大きくひとつジャンプしてしまいたい、と。
 娘の寝顔がストッパーになっていた頃があった。娘の寝顔を見つめ、そうだ、腕なんて切っちゃいけないと、必死に我慢できていた頃があった。でも今はどうだろう。私が腕をざくざくと切るとき、私の中に娘の姿がない。だから私は、躊躇うことさえなくぐいっとナイフを腕に添え引っ張ってしまう。ぽたぽたと流れ落ちる血に気づくこともなく、次から次へ腕を切り裂いて、一度そうなってしまうと私は、一通り終わるまで正気に戻れない。もう切るところがないよ、と、さんざん腕を嬲りつけてしまうまで、私は止まれない。もうどう頑張っても切る場所が左腕に見出せなくなったとき、ようやく私は息を吸う。そして、呆然とするのだ。一体いつのまにこんなに腕をまた切ってしまったのだろう、と。愕然とするのだ。自分で自分の為す行為に。愕然と、呆然と。そして私は、娘に見つかってはいけないと雑巾で血溜まりをごしごしと拭い、血だらけになった雑巾が彼女の目に触れないようにとゴミ箱の奥へ突っ込む。そうしてようやく一息つく。
 そんなふうに、一体何度夜を越えただろう。もう、数えられない。

 娘の隣で横になり、闇色に広がる天井を見つめながら、私はぼんやりと物思いに耽る。先刻友が伝えてくれた言葉を、心の中で反芻する。一線を越える前に、まだこちら側に戻ってこれるうちに私は引き返さなきゃいけない。でも。引き返すって何を引き返せばいいのだろう。どの道をどうやって戻って帰ったらいいのだろう。それが全く分からない。娘が呼ぶ方へ戻ってゆけばいいじゃないかと思うのだけれども、娘の声が響いてくる方向が掴めない。あまりにも漠とした世界に、まるで何の道しるべさえない砂漠の真ん中に放り出されたような、そんな世界、そんな場所。ここから私は一体どちらへいったらいいのだろう。
 誰のせいとか誰かのためとか、そんなんじゃない、自分で「生きていたい」と思いたい。自分自ら、「私は生きたいのだ」と、そうして歩いていきたい。そう思うのだけれども。
 私が自問自答している間にも時は過ぎ行く。チッチッチッと、枕元、目覚まし時計が動き続ける。そして、昨日と同じようにまた、朝がやってくる。


 朝、いつもの時間に娘を起こす。いつものように朝食を作る。園服に着替えた娘が小走りにテーブルにやってくる。彼女に朝食を食べさせながら、私は園へ行く準備を為す。「ママ、今日は何時ごろお迎え来てくれる?」「いつもと同じ時間だと思うよ」「えー、やだー」「え?なんで?」「もうちょっと遅くていいよ」「へ? 遅く?」「うん、だって、ゆかちゃんとビデオ見るんだもん」「あー、なるほど。うーん、でもなぁどうかなぁ、いつもと同じだよ、うん」「ゆかちゃんと一緒にビデオ見たいのにー!」「ははは。でもねぇ、まぁねぇ、そう言わずに…」「…しょうがないなぁ、ママは。あのさ、ママ、ほんとは、早くみうに会いたいんでしょ?」「はっはっは。うん、そう、会いたいの、だからいつもの時間に行くよ」「いいよ」。そうやって生意気なことを言うときの娘の顔というのはなんともいいようがないくらいにやけている。彼女と視線を交わしながら、私も笑顔になる。毎日毎日、何処かしら成長を続ける娘の姿が、なんとなく眩しい。
 とにかく今日も越えるんだ、明日へ繋げるためにも。
 両手にゴミ袋を持ち、玄関を出る。娘と二人、園までの道を歩く。途中でゴミを漁るカラスに出会う。すると娘が「こらー!カラスー!だめー!」と大きな声を出しながら、カラスに向かって走ってゆく。驚いたのか、カラスはざざざっと羽音を響かせながら電柱の天辺へ逃げてゆく。「もうっ! カラス、今度ゴミぐちゃぐちゃにしたら怒るからねっ!」。娘は最後にカラスに向かってそう言うと、のっしのっしと私の前を歩き出す。
 小雨舞い踊る中、バイバイをする。ぎゅうをしてちゅぅをして、私たちは別れる。
 とにかくまずは今日を越えるんだ、明日へ繋げるためにも。
 包帯を巻いた左腕が急にぎゅっと痛み出す。切っているときに痛みを感じたことはない、いつだって突然にぎゅぅと痛み出す傷痕。私は右手でぎゅっと左腕を握り痛みを散らしながら、仕事場への道を急ぐ。
 雨はまだ、止まない。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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