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2005年03月30日(水)

 さぁ今日こそは。そんな気持ちでカーテンを引き、窓を勢いよく開ける。窓から滑り込む風は滑らかであたたかい。いや、正確にはあたたかいとは言わないのかもしれない。が、つい二ヶ月くらい前なら鳥肌がたっただろう朝の風が、いつのまにかこんなにも緩み、私の肌を撫でてゆく。気持ちのいい朝。
 娘は顔がすっかりむくんでいる。それもそうだろう、昨夜、午前三時頃突然目を覚まし、約二時間、ぐずって泣いて過ごした。あれだけ泣けば瞼も腫れて当たり前。私が顔を洗っていると、娘がやってきて、珍しく自分から顔を洗うと言い出す。髪の毛を抑えてやると、小さい手でごしごし顔を洗っている。私は心の中でぷっと吹き出す。昔一緒に暮らしていた猫の顔洗いの仕草にそっくり。
 娘を保育園に送り届けた私は、そのまま元来た道を戻る。今日は何の予定もない貴重な日。明日は外に出掛けなければならない。その為にも、今日は家で静かに過ごして体調を整えなければと思う。
 園からの自転車での帰り道、ゆるい坂道を上ったり下ったりしながら、私は右に左にと余所見する。郵便局を通り過ぎてすぐの空き地、その角っこにはハナビシソウがもう蕾をつけている。ここのハナビシソウは確か橙色の花びらだった。以前別の場所で種を取ったのだけれども、あれやこれややっているうちにうちのプランターからは姿を消してしまったのだった。もう少し坂を下ると左に現れるのがスノードロップ。毎日毎日眺めているけれども、今まさに花盛りといった具合。風に揺れると花からちろりんちろりんと音が聞こえてきそうな気がする。そこを通り過ぎてしばらく行くと、毎朝この坂の両側に並ぶ街路樹に水遣りをやっているおじいさんのプランター群が現れる。そこは歩道の一角で、決して私有地ではないはずなのだけれども、そこに山ほどのプランターを並べて、季節毎におじいさんが種を植えている。そのプランターの中で、今、スイートピーの苗がぐんぐん育っている。私も小さい頃、何度かスイートピーを育てた記憶がある。ひらひらと曲線を描く薄い花びらが何ともいえず愛らしくて、いくら眺めても飽き足りない、そんな花だ。もう早々と蔓を伸ばしている。風が吹くごとに揺れるその姿は、なんだかゆったりとダンスしているようにも見える。そしてその反対側には、早咲きの桜。
 私は家に戻り、部屋中の窓を開ける。通りに面した窓からぐんぐん風は流れ込み、玄関側にある風呂場の小窓からまた外へ流れ出てゆく。私はその風を思いきり深呼吸し、とりあえず目についたものから片付け始める。
 街のあちこちで春が芽吹いている。空も風も光も雲も、みんな春一色。片付けながら私は時々ベランダに出て伸びをする。ふと南の空を見上げると、白銀の腹を輝かせながら飛んでゆく飛行機。
 昨夜娘が起きる直前まで焼いていたプリントは今、部屋の中、風鈴のようにひらひら揺れている。そっと触ってみると、すっかり乾いている。私は止め具を外し、プリントをひとまとめに重ねる。
 写真という言葉は、真実を写す、と書く。この真実或いは真(まこと)という意味は、一体どういう意味だろうと思う。事実なのか、それとも真実なのか。事実はともかく、真実というのはそれを持つ人の数だけ存在すると私は思っている。幼い頃は、事実も真実もひとつだと信じていた。でも、あの事件に絡んで弁護士をはさみあれやこれややっていくうちに体験したことから、私は、真実は人の数だけ存在するのだなと学んだ。いや、私はこう書いているけれども、それはまさしく私の真実であって、他の誰かのものではない。だから、他の誰かからみたら、私の言うことは真実でも何でもなく、もしかしたら嘘にさえ受け止められてしまうかもしれない。それを承知の上で敢えて言葉にするならば、真実はそれを持つ人の数だけ存在する、真実と事実とは大きな隔たりを持っている、私はそう、強く思っている。
 私の写真は多分、写す、のではないんだと思う。敢えて言うならば、私の写真は、作るもの、なのだと思う。私の中にある真実を、ネガという版を使って再構築し、それを印画紙に焼きつける。そういう代物だと、思う。でもそうしたものは、世間一般では何と称されるのだろう。先日遊びに行った写真工房のプリンターさんとは、写真は真実を写すものじゃぁないという方向でいつも一致をみるのだが、そのプリンターさんが、「今度君が個展やるときは、写真展じゃぁなくて作品展にした方がいいね、その方が世間には伝わりやすいかも」と話していた。「ネガの中から余計な情報をどんどん削除して、削って削って削り落として、本当に必要なものだけを印画紙に残していきたいと最近特に思うんですよ、もうどっさりばっさり殺ぎ落としちゃえ、みたいな」と私が笑うと、最近の画見てれば一目瞭然だと笑っていた。あぁ少なくともここに一人、画から感じて受け止めてくれる人がいるんだなぁと思うと、もっとどんどん作っていきたいとつくづく思う。

 昨夜あれほど寝不足だったろう娘は、でも、今夜もなかなか眠れないらしい。そんな娘を見つめる私の心の半分に、もういい加減さっさと寝なさいよ、と娘を急かす気持ちが充満し、でも、もう半分には、変なところが遺伝しちゃったみたいだねぇという申し訳ない気持ちが存在する。娘が最後「ママ、お歌歌って」と言い出す。半分苛々と、半分ごめんねと思いながら、私はとりあえず歌い出す。娘は一生懸命目をつぶろうとするのだけれども、すぐに瞼は開いて、あちこちをきょろきょろする。だから私が歌いながら瞼に手を伸ばすと、娘は再度目を閉じる。が、閉じた瞼がぴくぴく動いている。一体何度それらの行為を繰り返しただろう。もういい加減歌える歌がないなぁと思う頃、ようやく彼女は寝息を立て始めた。私はほっとする。ようやく解放されたかという思いが一瞬私の心をよぎる。けれど、それと殆ど同時に、今思ったことをなぎ倒す勢いで申し訳なさが増殖する。急かしてごめんね、無理矢理寝かしてごめんね。もっとやさしくできなくてごめんね、と。
 眠れないのは誰のせいでもない。誰のせいでもないし、もちろん、娘のせいなんかじゃない。なのに、眠れない娘を見ては苛々し、せっついて、彼女に苦しげで悲しげな顔をさせてしまう。そういう自分が多分、一番嫌いだ。彼女がようやっと眠ってその寝顔を見つめていると、明日こそ、と思うのに、それができない。いつだって、苛々と申し訳なさとが私の中に同居する。こんな両極端な思い、一体どうやって拭い去ったらいいんだろう。
 私は今、いつもの椅子に座っている。開けた窓からはぬるい風が時折滑り込んで来る。日記帳にこうして黙々と字を連ねながら、私は自分の中の矛盾する気持ちを、あれこれ幾つも思い浮かべ眺めてみる。どっちにもいけない、こっちとそっち、まさに振り子のように左右する。私の軸は何処にあるんだろう。
 そして見上げる空は街は、濃闇に覆われて。今夜も夜闇は淡々とそこに在る。誰に何に惑うことなく、ただここに、黙々と。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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