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2005年12月31日(土)

 朝、六時近くになって布団に潜り込む。寝息を立てている娘の身体はぽかぽかとあたたかく、私は思わずぎゅうぎゅう抱きしめてしまう。娘が寝ているのをいいことに、好きだよーん、愛してるよーん、などと繰り返し言いながら、小さなぺちゃ鼻にいっぱいキスの雨を降らせる。
 細く開けた窓の間から、白い光が漏れてくる。もう朝なのだ。私は、その白い光に引き寄せられるように、四つんばいのまま窓辺へゆく。そして思い切り音を立てて、カーテンを開ける。
 朝。朝がそこに在った。朝以外の何者でもない、ただ朝である朝がそこに在った。風は細く薄く流れゆき、ぽっかり空いた空を、今、鳥たちが渡ってゆく。
 娘と手を繋いで歩く。いつのまにか彼女の手のひらはずいぶん大きくなり、私の手をしっかり握れるほどになっている。結んだ手と手を大きく振りながら、私たちは坂道を下ってゆく。
 電車に乗って、いつものようにおしゃべり。その合間に、私が何気なく、「あやちゃんもおにいちゃんもみうと遊ぼうって待ってるから、いっぱい遊んでおいでね」と言った。彼女はもちろん、うん、と勢いよく返事してくれたわけだが、その後に驚かされた。
 ねぇみう、お友達たくさんできてよかったね。小学校行ったら、もっともっとたくさんお友達できるよ。好きなお友達も嫌いなお友達もいっぱいできるだろうけど、みうはかわいいから何とかなるさ、大丈夫! と、私がそんな言葉を軽い気持ちで彼女に言った。すると、彼女が思っても見ない返事を返してきた。
「それはね、ママがみうをかわいく産んでくれたからなんだよ」
 私は心底吃驚して、同時に呆気にとられてしまった。ママがみうをかわいく産んだから、みうにはお友達がいっぱいできるんだ、というその彼女の発想は、一体どこから生まれてきたのだろう。私のなけなしの脳味噌でぐるぐるぐるぐる考えてみたものの、全く想像もつかない。だから、おずおずと言ってみる。みうはね、最初からかわいく産まれて来たんだよ、もうねぇだからママは、みうがかわいくてしょうがなかったの。そう言うと、今度は彼女はさらりとこう言ってのける。でもね、かわいく産んでくれたのはママでしょ、みうをかわいくしてあげますようにって神様が魔法をかけて、そういうみうをママが一生懸命産んでくれたからみうはかわいいんだよ。
 …参った。自分で自分のことをかわいいと認識している、というその時点で、私には正直もう理解の域を超えている。そして最後に彼女は首をちょっと傾げて、私に向かってにっこり笑って言うのだ。「ママ、みうをかわいく産んでくれてありがとね!」。こういう言葉に、親は一体どう答えればいいのだろう。私はもう、何の言葉も浮かばなかったので、とりあえず彼女を抱きしめ、みう好きー!とじゃれるのが精一杯だった。
 子供というのは、一体どんな頭をしているのだろう。一体どんな心を持っているのだろう。大人ではとても叶わない宝石を、きっと幾つも幾つも持っている。それを自ら拾い上げて磨くのか、それとも、そこに在るものとしてスキップしながら通り過ぎてゆくのか、人それぞれだろう。でも、きっと、子供の歩く道筋、草原には、山ほどの宝石が、きらきらと輝いているに違いない。大人ではとても、手の届かない、子供だけの宝物が。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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