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2007年05月18日(金)

 本を読む余裕もないまま毎日が過ぎてゆく。読み損ねている本が、いつの間にか部屋の片隅、山積みになっている。時々それを振り返り、何でこんなに余裕がないんだろうと首を傾げる。
 そうしている間に、この机に座っている折見ることができる窓の外の街路樹は、枯れ木色から新緑の頃になり、お花のおじさんが街路樹の根元で育てている花はスノーボールからスイートピーや紫陽花に変わり、いつのまにかナスやキュウリの苗も見られるようになった。毎朝午前四時半、おじさんはポリタンクを幾つも重ねた自家製の如雨露を引きずって、一本一本、街路樹の根元に水をやる。そして、すっかり辺りが明るくなる前に、その姿は消えているのだった。
 それにしても。
 娘はぐんと成長した。この春二年生になり、学童で一年生の世話をすることがたまらなく楽しく嬉しいようで、私にしきりと「妹が欲しいよー!」と抱きついてくる。「でもなぁ、妹を産むためには、パパになってくれる人を探さないとならんから」と私が言うと、「えー、パパはいらないけど妹が欲しい」とあっさり返してくる。こういう問いにはもう、答えようがなく、はははと笑って今のところ逃げている。
 また、クラス替えがあり、担任も変わったことからなのか、学校に行くことが楽しいらしい。去年いじめられていたことが嘘のようだ、と私は少し不安になる。この私より一回り小さい体の中に、この子は一体どれだけのものを詰め込んで、黙って私についてきてくれているのだろう、と思うと。
 今月始めの私の入院も、彼女は陰でぽろぽろ泣いていたけれども、私の前では一切涙を見せず、さっさと退院してきてよ、絶対約束だからね、と言うのみだった。部屋の隅で、私が仕事をしている最中、こっそり泣いているその背中を眼の端に捉えつつも、何も気づいてないふりをして彼女に明るく声をかける。そして二人で共同作業をしたりお喋りをしたりする、ということが、何度あったことか。
 片親、かつ、PTSDなんぞを患っている女一人に、彼女はきっと、全身でぶつかってくることができないのかもしれない、そう想像すると、何とも情けなくなって、悔しくて悔しくて仕方がなくなる。でも、だからといってどうにかできるものでもない。毎日、ありがとう、と、ごめんね、を、繰り返し思う、そればかりが続く。でもいつか。そのいつかを信じて、今は、悪戦苦闘を繰り返しつつも前にすすむのみ。
 いつかきっと。
 気づけばもう、雨の匂い漂う六月が、目の前。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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