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2009年12月15日(火)

娘のアラームで目が覚める。午前四時。私は時計を見ながら、娘はこんな時間に起きて果たして何をしようと思っていたのだろうと首を傾げる。試しに娘の身体を揺すってみる。びくともしない。もう一度揺する。ぴくりともしない。私は結局、六時までは彼女を放っておくことに決める。
布団から出て真っ先に思う。足元が冷たい。昨日などよりも一層冷たい。それでも私はやっぱり窓を開ける。雲の垂れ込める空。娘と同じくこちらも、全く動く気配がない。今日は曇天なんだろうか。空を見上げながら思う。街景はまだまだ街燈の仄明かりの下、こんこんと眠っている。通りを行き交う車も今は、ない。
顔を洗い、化粧水を叩き込み、そうして私はもう一度ベランダに出て髪を梳く。抜け落ちる髪の毛を、拾い集めてゴミ袋に入れる。入れながら、こんなに抜けるなら、ちょっと溜めておいて、針刺しでも作ろうかと思ってみたりする。
イフェイオンの葉がさやと揺れる。微風が私の頬を掠める。もう一度空を見上げる。でも雲の動く気配はまだなく。風だけが渡ってゆく。私はいつものように薔薇の樹たちをじっと見つめる。病葉はないか。まずそれを見つめる。見つめるうちに私の視界は徐々に広がって、ひとつひとつの葉の色や形、蕾の姿、そして樹全体の姿を映し出す。私のベランダの樹たちは多分歪だ。秋のうちにばっさりと刈り込んでしまったせいもあるが、マリリン・モンローやホワイトクリスマスは、株の半分が枯れている。だから、半分だけが茂り、半分が枯れている、という具合。形の整った薔薇の樹は、多分一本もない。それでも私にとって彼らはかわいい。どんなに歪だろうと美しい。凛として、何処までも凛としてそこに在る姿は、たまらなく私を惹きつけてやまない。

母の具合を聴こうと電話をすると、開口一番、言われる。何なの、この写真集は。私は吃驚する。何なのって、娘の写真集だけれども。何なの、この写真集、何なの、この表紙。こんなの見たくないわ。え? 私は絶句する。見たくないってどうして? こんな写真を表紙に持ってくるからよ。全然見たいと思わない。
私はしばらく、何も言えなかった。そうなのか、母と父にとっては、あの表紙の写真はとんでもない写真だったのか、と、しみじみ思う。母の言葉は続く。何が面白くてあれを開くっていうの、もっと考えたらどう? そうなんだ、よく分かった。
結局、母の具合を聴く暇もなく、電話は切れた。私は半ば呆気にとられながら、切れた電話をしばし見つめていた。

病院の日。今日はカウンセリングだ。と思ってみても、一ヶ月ぶりのカウンセリングで、前回自分が何を話したかも覚えていないし、今日自分が話したいことがあるかといえば殆どなく。私はそのまま部屋に入る。一ヶ月ぶりというのは長く時間が空きすぎていて、正直何も思いつきません。続きません。正直にそう告げる。いろいろカウンセラーは努力してくれていたのだと思うが、私は全く言葉が繋がらない。続かない。結局そうして空しく三十分が過ぎた。私は今日何しにここに来たのだろう、そういう感覚が強く残った。
何だろう、カウンセラーって何だろう。改めて思う。

友人と時間を過ごす。が、多分私はとても疲れた顔をしていただろう。そんな気がする。何故かとても疲れていた。せっかく友人と会っているのに、気持ちが集中できなかった。何故だろう何故だろう。
心がぽきんと折れたような。ぐっさりと何かが刺さったような。痛みは見えなかった。痛いとさえ感じられなかった。感じられたらむしろ、よかったんだと思う。感じられたら、悲鳴を上げられたら、楽だった気がする。私は痛みを痛みとして感じられず、それはあまりにこれまでも繰り返されてきたことだったから痛みとして認識できず。ただ、途方に暮れていた。

何故だろう何故だろう。それは至極簡単なことだった。私は、父母に受け止めてほしかったのだ。単純に、写真集ありがとうと言って欲しかったのだ。別に写真を褒めてもらいたいとまでは思わなかったけれども、孫の写真を見て父母が楽しんでくれたらと、私はそう願っていたのだ。それが、一蹴されてしまった。あんな写真見たくもないと言われてしまった。そのことが、私をいたく傷つけていた。
傷ついていたのだという自分に気づいて、ほっとした。あぁなんだ、私はそんなことでこんなにも疲れていたのだと分かった。こんなにも哀しかったんだと、分かった。
試しにちょっと泣いてみた。泣いてみたら一層楽になった。試しに声に出して言ってみた。私、傷ついたよ、と。言ってみた。そしたらさらに楽になった。
なんだ、こんなことだったのか。私は笑えて来た。傷ついたのにそれをそのままにしておいたから、私はへこんでいたのか、と。
私にとって父母の言葉は、殆どが刃だ。ぐさりと突き刺さる。でもそれを突き刺さったよとは言い返せない。いつも言い返せない。言い返せないまま、ぐさりと刺さったまま、私はそこに在る。
幼い頃からそうだった。父母の言葉に翻弄され、嬲られ、そして息の根を止められるほど深く、彼らの言葉は私を貫いた。幼い頃は言葉がなくて、見つからなくて、何も言い返せなかった。思春期になり、私は闇雲に言い返すようになった。それでさらに傷つけ合うことになった。
昔のことはもう変えられない。じゃぁ今私はどうするのか。なけなしの頭で考えてみた。まずは、受け止めよう。そう思った。そういう見方をする人もいるのだな、と、そう受け止めてみよう。
それでも、何かが残っている。そうだ、他の誰にそう言われようと構わないのに、父母には言われたくなかった、という気持ちが、私の中にあったのだ。父母だからこそ、そのままに受け止めてほしかったという私の傲慢な気持ちがあったのだ。そこに気づいた。気づいて、苦笑した。あぁ、そうだったのか、と。今更ながら思った。
私は母に電話を掛け直してみる。繋がらない。仕方ない、メールにしよう。私は母にメールを打つ。しばらくして返事が返ってくる。中身までよくないとは言ってないでしょう。一言そうあった。
それを見て、私は笑ってしまった。半分泣いて、半分笑った。どうしてそれを先に言ってくれなかったんだろう、母は。もしそれを一言でも言ってくれていれば、私はこんなに悩まなくても済んだのに。
そう思って、気づいた。あぁ結局私は、何処までも、父母に、受け容れてほしくて受け容れて欲しくて、そう願っている「子供」なのだなぁ、と。
私の中に、まだまだ「子供」が残ってる。父母を求めてやまなかった「子供の私」が残っている。そのことに改めて気づいた。
もう、いい加減、解放してやってもいいんじゃないか。どうやって手放したらいいのか、どうやって抱きしめたらいいのか、まだ私には分からないけれども。でも。もう、解放してやっていいんじゃないか。
少なくとも私たちは、分かり合えないということを理解している。それだけでも、ある意味救いだ。

私は入れたてのハーブティを啜りながら、思い返す。昨日のことはもう流してしまおう。今日は今日。昨日は昨日。もう終わったこと。終わったことを今日にまで引きずる必要は、ない。

少しずつ空が明るくなってゆく。雲間から漏れ出ずる僅かな陽光が、街を照らし始める。それまで闇に沈んでいた輪郭が、徐々に徐々に明らかになってゆく。
じゃ、ママ、そろそろ行くね。あ、ちょっと待って! 何? はい、ココア、挨拶して! ははは、じゃぁ、ちゅー。あーーー、ココアがいやだって言ってるよ、きゅうきゅう泣いてる。はっはっは。そんなにママのちゅーがいやなんだ。ママがぎゅーって握るからだよぉ。ははははは。それじゃぁね、また後でね!
三駅分、自転車で飛ばす。まだ陽光もまばらの灰色の街、背中を丸め俯いた人たちが忙しく行き交う。その合間を私は自転車ですり抜けて行く。
さぁ目的地はもう目の前。川沿いの道を走り抜ければその先に。

川は淡々と流れ。淡々と流れ。何もかもを浄化するかの如く淡々と。その川沿いの道、私は走る。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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