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2009年12月11日(金)

カーテンを開けて外を見やる。まだ雨は降っていない。天気予報は雨、降水確率は90パーセントだという。私は空を見上げる。まだ闇の中眠っている空。でも、どっしりと重たげな気配。いつ降り出してもおかしくはないんだろう。
何となくすぐには外に出たくなくて、そのままお湯を沸かす。何を飲もうと一瞬迷い、レモン&ジンジャーティに決める。もしかしたら起き抜けはレモングラスとペパーミントの方が合っていたかもしれない。でも、もう用意してしまった。私はそのままお湯を入れる。レモングラスのものよりも薄く明るいレモン色がカップの中広がってゆく。
どうしてだろう、昨日のことがよく辿れない。夢を見ることもなく眠った後だというのに、この倦怠感は何だろう。何となく厭な気分。それを拭うこともできず、私はお茶を啜る。
昨日、小さな事故が起きた。娘がミルクとココアをそれぞれの手に乗せて私に近づいてきて、私にそれを手渡す。私も右手にココア、左手にミルクを乗せていたのだが、ちょっと気を抜いた隙に、ミルクがココアの耳を噛み千切ってしまった。キキキッと叫び声を上げるココア。それにびっくりしたかのように身を縮めるミルク。娘もこれまた悲鳴を上げ、ココアを抱きしめる。耳からとくとくと垂れてくる血の粒。
血を見慣れている私は、あまり驚くこともできず、娘にミルクをとにかく籠に入れてくるように言う。そしてココアを受け取り、耳をちり紙で拭いてやる。ちょこ、ちょこっとちり紙にココアの耳の血が滲む。でもこのくらいなら大丈夫だろう。私はそう思った。しかし。
娘は。こんな小さなココアの体なんだからこれくらいの血が出ても死んでしまうと思ったらしい。もうぽろぽろと涙を零し、病院に行くんだと言い張る。この時間にやっている病院はないんだよ、それにこのくらいなら大丈夫だから、すぐに血も止まるから。でも、でも、もしミルクの口にたくさんの黴菌があって、そのせいでココアが死んじゃったらどうするの?! 大丈夫だから、ね? しばらく様子を見よう。病院に行ってもやることは殆ど同じだよ、きっと。
娘はまだ泣いている。そんな娘を私はじっと見守る。時計の音だけが、チッチと部屋に響いている。
もう一度ママにココアを見せてご覧? 娘がココアを差し出す。私はそっとちり紙でココアの耳を触ってみる。ほら、ちり紙に血なんてつかない。もう血は止まったんだよ。うん。そろそろミルクの様子を見てやったら?
ママ、ミルクがしょんぼりしてる。じっとしてる。ほら、ミルクも、悪いことしたっていうのは分かってるんだよ。ミルクは悪気があって噛んだわけじゃなくて、それが本能だから噛んだんだよ。娘は黙っている。そして、これからは一日にどちらかとしか遊ばない、と言い出す。でも、一週間は七日だから、一日どっちか多くなっちゃうよね。どうしようか。そしたらその日だけ交互に遊んであげたら? …うん。
娘はなかなか眠らなかった。何度も籠を覗きに行き、ココアが生きていることを確かめている。その気持ちは、何となく分かる。私は、娘がまだ生まれたばかりの頃、突然呼吸が止まってしまって何処かに行ってしまうんじゃないかと、しょっちゅう彼女の顔に手のひらを近づけて、彼女が呼吸していることを確かめていた。私の場合事故が実際に遭ったわけじゃない。そうじゃないのに、これから起きるかもしれない事故をとんでもなく恐れ、そして、慄いた。その頃いた夫が、何度私の行為をたしなめたか知れない。それでもそれは、なかなか止まらなかった。今、ココアを見守る娘の姿は、まさに、あの頃の私だった。だから私は、言えない。もうこんな遅い時間なんだからいい加減眠りなさい!とは、言うことができない。
結局、私が横になり電気を消しても、彼女は私に抱きついたまま、じっと息を潜めていた。寝入ったのは多分、かなり後だ。

昨日のことがうまく辿れない、というのは、何と頼りないことか。こうしてノートと向き合って、懸命に記憶を辿ろうとしても、霞んでぼやけて、まるでばらばらになったジグソーパズルのようだ。しかもそのピースはひとつずつやけに小さくて。どれが何処に嵌るのか、一向に掴めない。五十音表をばらばらに気って、ちらばしたかのようだ。それがたとえば「あ」という文字であることは掴めても、それがどれと繋がるのかが掴めない。

母に電話をする。水曜日は病院だったはず。今病院でどうこう治療がなされているわけではないことは知っているが、念のために電話する。出てきた母は、開口一番、まだマリリン・モンローは咲いているわよ、と言う。あれは形がなかなか崩れないのね、これだけ長い時間咲いていても中央の芯が見えてこないわ。あぁそういう品種なのよ。これはいいわねぇ。切花にしてもずいぶん長いこと楽しめて。でもその花は、特別色が違うのよ。確かに少し色が褪せてきたわね。いや、多分それが、もともとの色だと思う。ほんのりしたクリーム色がもとの色だから。ふぅん、そうなの。でもこのままの色もいいわよ。さて、今度そういう色が咲くかどうか。分からないなぁ。
病院のことを訊ねる。行ってきたわよ、でも、別に変わりなく、とにかく二月までは何も分からないから。途中経過はまぁまぁってことなのね? まぁそういうことね。分かった。とりあえず元気なら、それでいいわ。まぁそういうことね。はいはい。

突然呼び鈴が鳴る。何かと思い出てみれば、宅急便だという。そういえば本を注文していたんだと思ったが、それとは違うらしい。何だろう。受け取ると、友人からの包みだった。奥で勉強している娘が、誰から?と訊ねてくる。Aさんだよ、と言うと、何が入っているの、と途端に興味津々になる。二人で顔をくっつけて、袋の中を覗く。娘の分、私の分、それぞれ入っており。添えてあったカードを二人で読む。
娘は早速包みを開けて。わぁわぁと嬌声を上げている。私にはこういうところが足りない。彼女から届く包みを開くと、いつも思う。彼女が送ってくれる品々はいつも、人の心をほっくりさせ、喜ばせるものたちばかりなのだ。しかもしれは楽しい。
私には、入浴セットと、これは小さな枕なんだろうか。最後の包装紙を破ることができず、私はその外側からしげしげと中を見つめる。あぁ彼女らしい。そう思った。この前の電話で、私が疲れたと繰り返していたことを気に留めてくれたのだろう。これでゆっくりしろってことなんだろう。そう思ったら、なんだか嬉しくて、そしてちょっと笑えた。耳の内奥、彼女の声が蘇ってくるかのようだった。

夕方、本が四冊届く。それと発注していた作品集四冊も併せて届く。私はそちらを先に開ける。父母に一冊プレゼントしようと、二冊注文した。降り積もる記憶の今年版だ。モデルは娘。一年に一度、彼女を撮る。それは、いつもの私の撮る行為とはちょっと異なる。娘を撮るという行為は、少し照れくさく、でも同時に、娘は全くの別人であることを知ることになる。私から産まれたけれども、私が産んだけれども、でもそれはもう、すでに生まれた瞬間から、私とは別の人間なんだという、そのことを、再確認する作業、と言ってもいいかもしれない。カメラの前で走り回ったり、おかしな顔をしてみせたりする娘。私はそれを追いかける。裸足になることだけが条件といえば条件。あとは基本的に好きにしていいよ、と言ってある。だから、彼女はこれでもかというほど好き勝手に動き回る。カメラを持って追いかける私は、いつのまにか必死になり、娘を撮っていることを忘れる。そこにいるのは娘ではあるけれども同時に娘じゃぁない。まさに一個の被写体であり。彼女にはとても緑が似合う。土の匂いが似合う。私は彼女の名前に海という字をつけたけれども、実は海より森という字をつけたほうがよかったか、と思うほど、そのくらいに似合う。服が汚れるなんてことをこれっぽっちも考えていないのだろう。土の上、芝の上をごろごろごろごろ、転げ回る。冷たいよぉと言いながらも、裸足で走り回る。そう、今年撮影したのは秋だった。雨上がりの秋の朝だった。しっとりと濡れた芝も土も、だから裸足になると冷たさが一番に伝わってきた。でも、やがてそれはぬくもりに変わるのだ。
そうして撮影した作品たちを一冊にまとめたもの。それを、今年の父母へのクリスマスプレゼントにしようと思う。
あと残り二冊は。最近始めた、二人展のまとめだ。前回やったものと、来年一月にやるものを、それぞれまとめてみた。一点だけ気になる仕上がりのものがあったけれど、まぁだいたい合格点か。
そして注文した四冊は。すべてクリシュナムルティ関連の本。まだ私が持っていないものの中から、適当に選んでみた。これからじっくり読んでいきたいと思っている。

朝の仕事は、なんとなく気だるいまま過ぎた。何とかやり終えただけでもよしとするか、と思ったところで私は時計を見、慌てる。もう出る時間じゃないか。今日は学校だ。そしてこれまた実践授業の日。
そういえば娘は、今日はミルクのことしか抱いてこない。昨日決めたことを彼女は実行しようというのだろうか。それは、彼女の意志に任せる。彼女がそう決めたなら、そうしてみるといい。まずはそこから。
私は、娘が差し出したミルクを手でこにょこにょと触り、そのまま娘に返す。じゃぁ行って来ます。いってらっしゃーい。また後でねぇ。はーい。
外は雨。しとしとと、決して激しくはない雨が降っている。激しくはないけれど、冷たい雨だ。バスに乗り、駅を渡り、川を渡り。私はそこでいつものように立ち止まる。
ふと思い出す。「コップというものは、空のとき初めて役に立つのです」。クリシュナムルティの著書「自我の終焉」の中にあった言葉。私は、川面を見やりながら、その言葉を声に出して呟いてみる。コップというものは、空のとき初めて役に立つのです。
私のコップは、今どのくらい水が入っているんだろう。
川は流れてゆく。こんこんと、こんこんと流れ続けている。雨粒がその川面に落ちては小さな波紋を描き、そして消えてゆく。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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