2005年04月12日(火)
雨が降り続く。街はみなしっとりと濡れ、あれほど乾ききっていたアスファルトは今、雨を吸い込んで黒々とその存在を知らしめる。私は込み合う電車に飛び乗って、ドアに身体をぴったりくっつけ、心の中で呪文を唱える。誰もいない、誰もいない、ここにいるのは私だけ。そんなあり得ない呪文を唱えながら、私は電車が目的地に着くのをひたすら待つ。
きっかけは、多分、ひどく些細なことだった。そのひどく些細なことが、私の心臓をぐさりと刺した。そして気づくと、私は手当たり次第そばにおいてあったものを投げつけ、ドアを蹴り飛ばし、その場から去る。こんなことしたって何の解決にもならないことを百も承知で。
私の中で衝動はあっという間に倍増し、増殖し、私という一個の固体を全部呑み込んでしまうほどにそれは増殖し、気がつけば私はすっかり、それに呑み込まれていた。頭の隅、ほんのひとかけらの頭の隅で、そんなことしたって何の解決にもならないのだよという冷静な声がする。でも、私の殆どの部分が、絶叫していた。そして気づけば、私の腕は幾つも切り刻まれていた。
ぼたぼたと床に落ちる紅い滴は、私の腕から絶え間なく流れ落ち、私はそれを眺めるでもなく眺めていた。あぁまた後戻りしてしまった。これだけはもう二度とやるまいと決めていたことだったのに、私の衝動はあっけなく、私の理性を凌駕し、私の腕は傷だらけになっているのだった。
もう何もやる気なんて起きなかった。なのに、私の奥の奥、針の先ほどの何かが必死に声を上げていた。だめだ、だめだ、こんなんじゃだめだ、ほら、自分から逃げるな、自分から目をそらすな、この弱過ぎるどうしようもなく弱過ぎるこの部分も、間違いなくおまえの一部なのだ、と。自分から目をそらすなんて卑怯な真似は、もうこれ以上するな、と。
どのくらい時間が経ったのだろう。覚えていない。私はのろのろと立ちあがり、床に溜まった紅い染みを、まずタオルで拭いた。そして電話をする。ボランティアの人が電話に出て、近所の外科を教えてくれる。私は時計を見る。まず娘を迎えに行って、その足で病院に行こう。そう決めて、私は仕度をする。
病院に着くと、連絡をいれていたせいなのか、先生がすぐに受付に出てきて、腕を見せてごらんと言う。どうにでもなれという心持ちで、私は先生に腕を見せる。よし、じゃぁこっちに来て。先生に言われ、私は娘と一緒に診察室に入る。娘の目の前で治療はあっという間に済んでゆく。「君、これ、一度目じゃないね。もう何度も何度も切ってきたでしょう?」「はい」「とまらなくなっちゃったの?」「はい」「よし、まずは消毒、抗生物質も出すからね。縫うのは…」「縫いたくないんですけれども…」「うーん、じゃぁなおさらに薬ちゃんと飲んで。二日にいっぺんは、ここに来ること。いい?」「はい」。
私が腕を切り刻んだ理由を尋ねることもせず、先生は淡々と治療を進めてくれる。合間に娘に話しかけ、娘は先生の言葉に安堵する。
じゃ、明日か明後日、また来てくださいね。そんな先生の声に頭を下げて、私たちは外に出る。
娘が眠り、私はひとり、いつもの椅子に座る。いつのまにか雨は止んでいた。娘が眠りにつく直前まで、包帯を巻かれた私の左腕をずっと撫でていた。早く治りますように、そんなことを何度も言いながら、彼女は私の腕を撫でてくれた。
情けないと思う。こうなってしまったことに私なりに理由があったとしても、それでも情けないと思う。
一番恐いのは、これがきっかけになって、際限なく腕を切り刻んでしまうことだ。よほどしっかり足を踏ん張らないと、また容易に私は切り刻むことを始めてしまうのではないか、そう思える。耐えられるだろうか。踏みとどまれるだろうか。いや、踏みとどまらなければいけない。これ以上は。
頭ではそう思うのだ。必死にそう思い、自分を律しようと私の中の私の一部がその方向に動き出す。しかし。
同時に、思う存分切り刻んでしまえ、という声も、私の奥から沸きあがる。私をそうして誘惑し、蟻地獄に引きずり込もうと嘲笑している。
ベランダに出る。雨の止んだ夜の街はしんと静まり返り、車の行き来も何故か今夜は少ない。辺り一面、静寂に包まれている。アネモネを見やると、夜闇の中、彼らは花びらを閉じ、じっとしている。薔薇の新芽は次々と開き、開いた直後の紅色からやわらかい緑へと変化し続けている。ミヤマホタルカヅラは今、驚くほどたくさんの蕾を孕み、その蕾は日に日に膨らんでゆくのだった。いつ咲いてくれるだろう。あの澄み切った、それでいて深い深い蒼。小さな花だけれども、その蒼の深さは海の深さを思い出させるほどなのだ。早くその色が見たい。私はしゃがみこんで、蕾をそっと指先で撫でる。
大丈夫。揺り返しはいつだってある。それがたまたま今日来ただけだ。調子の悪い時にどどっと押し寄せただけだ。だから大丈夫。明日になれば私はまたきっと、笑っている。このくらいの傷が何だ。どうってことはない。昔腕一本を隙間なく切り刻んで、そうしなければ止めることができなかった衝動も、今日は数えられる程度の範囲で止めることができたのだから。なんとかなる。きっとなんとかなる。今日は今日。明日は明日。私はまた、歩いてゆける。
街の明かりが殆ど消えた午後11時過ぎ。街灯だけがしんしんと点っている。見慣れた橙色の光が通りを照らす。深夜バスが今、バス停を通過した。私はベランダの手すりに手を添えて、首を反り返らせる。雨の後だ、さすがに星も何も見えない。けれど、この雲の向こうにきっと、光溢れる世界が隠れてる。明日になれば会えるかもしれないその世界を、今は信じよう。
大丈夫。もうじき今日は終わり、明日だった時間がやがて今日になる。一日一日を地道に越えてゆけば、道は必ず拓ける。
私は、大丈夫。
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