茅野カヤ・にのみやさをり二人展「旅をするひと」、展示を終えて
もうすでに茅野カヤさんがこちらの記事をアップしてくれています。
それに補足する形で、こちらに少し、記しておこうと思います。
今回の二人展は、私が彼女にもちかけたのでした。予定していた他の方との二人展がキャンセルになった時、展示自体をやめようかと考えた直後、旅人さんの姿が私の脳裏に浮かんだんです。ああ、旅人さん、そうだ、旅人さんがいる! そう思ったので、即座にカヤさんに声をかけてみました。こういう時、迷っていても始まらないのでまず声をかけてみるのが私の流儀です。迷惑かもしれない、無理かもしれない、といくら悩んでもそれは私の側の不安要素であって、カヤさんがどうだかは分からない、カヤさんに声をかけなければそもそも何も始まらない。だから気持ちを振り絞ってひょいっと声をかけてみました。
すると、カヤさんは即座に返答してくれました。やりましょう!と。ここから今回の二人展が始まりました。
これは私の中のことですが、こういう形で二人展をやるからには、私と私の作品は、カヤさんと旅人さんをどれだけ輝かせることができるかに徹しよう、と、そう決めました。そう決めると、おのずと撮るべきものが見えてきました。
撮影日当日、カヤさんはあらかじめ何枚かの描きかけの絵を用意して待っていてくれました。私はそれらを描く彼女をただひたすら撮影しました。途中力が入り過ぎたのか何なのか、乗っていたベッドが「ばきっ!」と派手な音を立ててくれました。顔面蒼白です。絶対壊れた、ベットを壊してしまった、と焦りましたが、カヤさんはにこにこ笑って「年代物ですからー!」と流してくれました。ありがたや。
その後近くの公園に撮影に行きました。彼女の佇まいは、思った通り、旅人さんの佇まいと重なり合うものがありました。私は迷わずシャッターを切り続けました。
カヤさんと私は、確かに打ち合わせと称して時間も設けましたが、多くの言葉はそこに必要ありませんでした。彼女の絵と私の写真とが互いに響き合っていたからです。互いを、そして作品たちを信頼し、想いを託し合いました。
そうして始まった展示はあっという間に終わってゆきました。はじまりがあれば必ず終わりもあるというもの。駆け足で過ぎてゆく時間たちを、私たちはじっと見つめながら見送りました。かけがえのない時間を過ごせたと思います。それもこれも、ひたむきなカヤさんとその作品たちがいてくれたからだと思います。今はただ、感謝です。
最後に。展示の入口にそっと置いた私たちの言葉を残しておこうと思います。
二人展「旅をするひと」に寄せて
「旅人」さんを最初に見かけたのはいつどこでだったろう。記憶が定かでない。が、私はその不思議な姿に一目にして惹かれたのだ。
足を持っていながらその足は地上に張り付いてなんていない、どこかふわっと地上から浮いてしまっている。目もあるけれど、その目は現実を映し出すためにあるというよりも、見えない聴こえない声に耳を澄ましているかのように見える。いつもどこか寂し気な表情を浮かべ、佇む「旅人」さん。私は「旅人」さんの向こう側に描き手の姿を透かして見ていた。別の言い方をするなら、「旅人」さんの佇まいに、描き手の姿を重ね合わせていた。普段描き手の茅野カヤ氏は色とりどりの精密な絵を描いている。でも「旅人」さんは静かなグレートーン。決して色が現れることはない。そのことにももしかしたら私は、惹かれたのかもしれない。そして実際にお会いしてみれば、まさに「旅人」さんがひとの姿を借りて現れたかのような幽かな雰囲気を纏った方だった。
この幽かな雰囲気を彼女が纏うのにはきっと、理由があるのだろう。敢えて尋ねたことはないが、カヤ氏が時折こぼしてくれる言葉の端々から、彼女の生きづらさ、息苦しさが伝わってきた。それでも生きてゆくしかないということもすでにカヤ氏は承知しているかのようだった。だからこそカヤ氏は、全身全霊の祈りを「旅人」さんに昇華させているのだと気づいた時、またひとつ、「旅人」さんが私にとって近しい存在になった。
ひとはいってみれば誰もが人生における旅人といえる。そんなあなたから見える「旅人」さんはどんな表情だろう。ひとりひとりの立ち位置から、「旅人」さんの旅路に寄り添っていただけたら、私は嬉しい。
2021/12 にのみやさをり記
にのみやさをりさんの存在を知ったのは約15年前。私は20歳になるかならないかという時期だったと思う。
たまたま見つけた写真と日記のホームページだった。
そこに載せられた数々の写真を見て、ハッとした。『此処に立っているのは私だ』と思ったのだ。
にのみやさんの写真は不思議だ。15年ほど見続けているけれど、見るたびに違う感情が湧いてくる。それなのに、通底している寂寞とあたたかさがある。自身を重ね合わせて見てしまうのは昔からずっとだ。
御本人にお会いする機会を得たのは10年経ってからだと思う。にのみやさんに会ってその溌剌さに驚き、そして時を経て納得した。にのみやさん自身もまたあたたかさと同時に寂しさの垣間見える方だった。
にのみやさんに言われるまで、私は旅をしている自覚がなかった。ずっと同じところで動けないままでいると思っていたから。でも、そうだ、私は絵の中で旅をしている。
『旅人シリーズ』はまともに絵が描けなかった時に、手慰みに描き始めたのが始まりだった気がする。何も考えず手が動くまま、毛むくじゃらの砂漠に立つ存在ができた。そこから、浮遊していたり他の生き物と融合したり、そしていつもどこか遠くを見ていた。それは何処にも行けない私が望む、理想のようなものだったかもしれない。
本展では、私が『旅人』を通して旅をする様と、にのみやさんの眸を通して旅をする私とを見てもらえたらと思っています。
2021/12 茅野カヤ記