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2005年05月15日(日)

 気がついたら、畳の上に丸くなっていた。場所も時間も分からず、ただぼんやりと、窓の外が仄明るいことだけ、知ることが精一杯だった。
 握り締めていた携帯電話を指から外そうと思うのに、思うように剥がれない。右手で左手をばしんと叩いてみる。するとぼとりと畳の上に堕ちる携帯電話。
 また一人、飛んだ。
 でも、その一人がそうやって飛んで命を失っても、今日はやってくる。朝の次には昼が、昼の次には夜が、そしてまた朝が。そうして毎日は繰り返されてゆく。世界の中でこれっぽっちの存在でしかない私たちは、命を失ってまでなお、これっぽっちに過ぎないのだろうか。立ち上がり、カーテンを開ける。そこにはありとあらゆる映像が在り、私は眩暈を起こす。カーテンに必死に掴まり、体が倒れないように支える。足は膝はがくがくと震え、私の頭の方からずずずずずっと、熱が降りてゆき、私はもう、立っているのがやっとなのに。窓の外、雀が囀っている。微かな風に、街路樹の緑が揺れている。何も変わらない。昨日と何も変わらない風景。でも、もうその人は、この世界には、いない。
 昨晩、泣きじゃくっていた彼女は今どうしているだろう。あの後も、思いきり泣くことができただろうか。嘆くことができただろうか。どうかそうであって欲しい。彼女が思いきり手放しで嘆く場所が、彼女のそばに、あって欲しい。

 ねぇ、私たち、絶対生き延びようね。
 死んだらだめだよ、絶対だめだよ、
 生き延びよう、手首いくらざくざく切って、血だらけになろうと何だろうと、それでも絶対生き延びよう
 生き延びるためなら、何やったっていい、だから、生き延びて
 こんな思い、自分の大切な人たちに味あわせたりなんて、絶対したくない
 生き延びようね、絶対に生き延びようね、私たち

 ぼろぼろに泣き崩れながら、彼女はそう言った。私はただそれに、じっと耳を傾け、ひとつひとつに頷いた。本当ならハグして、いつまでだって彼女が泣くのを手伝いたかった。でも、それができるほど、私はまだ、強くはなくて。それが多分、私にとっては一番、悔しく切なかった。

 いつのまにか陽光は明るく街を抱き、洗濯物を干す人、布団を干す人、ベランダでプランターをいじる人、それぞれの人々の暮らしを照らし出す。ベランダの手すりに顎を乗せ、下を見やれば、買い物袋を提げた老婆やバス停へ足早に向かう人の姿、それぞれがそれぞれに今を生きている。
 あぁどうか、みなが幸せでありますように。
 そう祈ったら、涙がぽとりと堕ちた。そんなこと、あり得ないのだ。誰もが幸せである世界なんてあり得ない。怒りで隣人を殴り殺す人、殺される人もいれば、恨み妬みで何処までも執拗に追いかけられる人、追いかける人もいる。昨日まであたたかなスープを飲んでいたはずなのに、今日突然どん底に突き落とされ、水を口にすることさえ叶わなくなる人も。だから、私がいくら祈ってみたって、そんなのまやかしだ。嘘だ。私は嘘に乗っかって目を閉じているだけだ。そうでありますように、なんて祈って何になる? 偽善者か、私は?
 それでも。
 それでもこんなとき、祈らずにはいられないのだ。それが馬鹿げてるといくら分かっていても、祈らずにはいられないのだ。
 どうか、みなが幸せでありますように。
 そんなことあり得ないと、もうこれでもかというほど痛感している、それでも、祈らずにはいられないのだ。どうか、どうか、と。
 そしてまた願うのだ。それがあり得ないと知りつつも。
 どうか、みなの上に平等に、光が降り注ぎますように、と。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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